ヒトラー暗殺計画
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彼はザクセンハウゼン、次いでダッハウ強制収容所に収監され、大戦末期の1945年4月9日に処刑された[16]。この事件以後、爆発物の管理が厳重になった[17]
ズデーテン危機における陸軍のクーデター計画

1938年5月、ドイツのチェコスロバキア攻撃計画が漏洩し、ヒトラーはズデーテン地方の割譲を要求した。情勢は緊迫し、チェコ、フランス、イギリスは動員を発令、ドイツでは陸軍参謀総長ルートヴィヒ・ベック陸軍上級大将が、ヒトラーの政策に反対して辞任[18]。ヨーロッパに戦争勃発の危機が迫る。このような情勢下、反ヒトラーのクーデター・暗殺が計画された。元陸軍参謀総長ベック上級大将[19]、その後任の陸軍参謀総長フランツ・ハルダー上級大将[20]、国防軍情報部長ヴィルヘルム・カナリス海軍大将[21]、同情報次長ハンス・オスター陸軍大佐[21]、ベルリン地区防衛司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン陸軍大将[22]、装甲部隊司令官エーリヒ・ヘプナー陸軍中将[23]、ベルリン警視総監ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ警察大将[24]、刑事警察本部長アルトゥール・ネーベ警察中将[24]、元参事官のハンス・ベルント・ギゼヴィウス(de:Hans Bernd Gisevius)[25]、国立銀行総裁ヒャルマル・シャハト[24]、高等裁判所裁判官ハンス・フォン・ドホナーニ[26]、外務省官房長エーリヒ・コルト(de:Erich Kordt)、元ライプツィヒ市長カール・ゲルデラー[27]、精神科医カール・ボンヘッファー[26]ら多数の軍人、政治家、官僚、知識人、文化人らが関与していた。彼らのグループは、後にゲシュタポによって「黒いオーケストラ」の名で呼ばれるようになる。彼らは当初、ベルリンの総統官邸に乗り込んでヒトラーの退陣を迫り、それを拒否すればヒトラーの逮捕、そして裁判又は精神鑑定にかけるような計画も立てており、場合によっては暗殺も辞さないことになっていた[28]。しかし、ヒトラーはイタリアの独裁者ムッソリーニの調停により、ミュンヘン会談でイギリス・フランス両国が譲歩[29]。ズデーテン地方のドイツへの割譲を認めて戦争が回避され、クーデターは実行には至らなかった[30]。こうしてヒトラーは政権獲得後、最も危険な暗殺の危機を免れた。
イギリス大使館による暗殺

イギリス大使館付きの軍人、ノエル・メイスン=マクファーレン(en:Noel Mason-MacFarlane)による提案[31]。1939年4月20日にはヒトラーの誕生日パレードがあり、マクファーレンの自宅からヒトラーが誕生日パレードを観覧する現場まではわずか100 mほどの距離だった[31]。この程度の距離なら狙撃銃で射殺できるとして、マクファーレンは本国イギリスに射殺許可を願い出たが、却下された[31]。却下された理由はマクファーレン死去後の17年後に公開されたが、スポーツマンらしくないという理由だった[31]
ヴァルキューレ作戦「ヴァルキューレ作戦」も参照

大戦勃発後、ドイツは占領地から数百万人の捕虜や奴隷的労働者をドイツ国内へ連れて来たが、カナリス国防軍情報部長がヒトラーに「彼らが叛乱を起こした際の対策を取る必要が有る」と進言。ヒトラーはそれに同意し、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将に対策案作成を命令した。フロムは部下の同軍参謀長フリードリヒ・オルブリヒト大将にそれを一任し、オルブリヒトは1942年10月13日、反乱鎮圧計画とその隠語名「ヴァルキューレ」を立案した。

国内で反乱が発生した際、国防軍・武装親衛隊を含め、全ての武装集団をベルリン・ベンドラー街の国内予備軍指揮下に置き、戒厳令を布告し政府の全官庁、党機関、交通・通信手段、放送局、軍法会議の設置まで全てを掌握する、という計画であった。発動権限は国内予備軍参謀長にあり、同軍参謀長オルブリヒト大将ら陰謀派は、ヒトラー暗殺後「ヴァルキューレ」を発動、それをクーデターに利用して国内を一気に掌握する計画を立てた。
閃光作戦

1943年2月、スターリングラード攻防戦の敗北後、ドイツ軍は赤軍の攻勢に備えるための作戦(第三次ハリコフ攻防戦)を立案した。この作戦に関連してヒトラーは2月17日にザポロージェに置かれた南方軍集団司令部を飛行機で訪問した。これを好機と見た中央軍集団参謀長のヘニング・フォン・トレスコウ少将は、ヒトラー副官の友人ルドルフ・シュムントを通じて、スモレンスク中央軍集団司令部にもヒトラーが訪れるよう工作した[32]。当時の中央軍集団司令官は、以前から「黒いオーケストラ」グループに参加を求められていたギュンター・フォン・クルーゲ元帥だった。彼は東部戦線における武装親衛隊の蛮行に憤慨し、暗殺を決意したとされる。「閃光」とは、トレスコウが立てた、ヒトラー暗殺計画の隠語名である。彼は以前から情報担当参謀ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ大佐に爆弾を用意させ、司令部周辺の森林で爆破テストを繰り返していた[33]。当初、司令部内で会食中に反ヒトラー派の6人の将校がヒトラーを暗殺し、1個中隊が武装親衛隊を制圧する予定だったが、クルーゲが関係のない軍人を射殺する可能性を嫌がったこと、ヒムラーがいないため、万が一ヒトラーの射殺に成功したとしても、国防軍と武装親衛隊の内乱につながるとして反対したので断念[34]。そこで、総統大本営に戻るヒトラーを、その搭乗機ごと爆殺する計画に切り替えた[35]。この計画ならば、ヒトラーの死亡は飛行機事故によるもので、国防軍と武装親衛隊の内乱には突入しないだろうという目算だった[35]。また、国内予備軍参謀長オルブリヒト大将と連絡を取り、「ヴァルキューレ」作戦の発動を依頼した。

3月13日、ヒトラーは搭乗機Fw200コンドルで中央軍集団司令部に到着した[36]


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