日本側の背景および目的としては、以下の4点が挙げられる。
日独防共協定を前提
東洋文化の推進力・アジアの中心勢力としての日本への理解の促進。これは、中国と外交関係を維持していたドイツから日中戦争に対する理解を得ようとする目的があった。
日本国内の諸青少年団の連携を促すこと
国体の歴史と民族の伝統を示し国民的精神が形成されていることをドイツに顕示すること
『国際写真新聞』表紙:ようこそ若き盟友
8月16日、横浜港到着
8月16日、駐日ドイツ大使館訪問
9月5日、東京駅前
9月、明治神宮参拝
10月、靖国神社参拝
10月、宮城前
第12SS装甲師団詳細は「第12SS装甲師団」を参照
第12SS装甲師団“ヒトラーユーゲント” (12. SS-Panzer-Division Hitlerjugend) は、上記のヒトラーユーゲント団員から選抜された少年兵(ほとんどが16、17歳であった)及び第1SS装甲師団“SSアドルフ・ヒトラー連隊”(1. SS-Panzer-Division “Leibstandarte SS Adolf Hitler”)から抽出された士官、下士官を中心に編制された武装親衛隊の部隊。士官の数が足りず、国防軍の士官を出向させた他、下士官は成績優秀で急進的なユーゲント兵士からも選抜して昇格させた。未成年兵士には成年兵士に支給されるタバコの代わりにチョコレートなどが支給された。
当初1943年に装甲擲弾兵師団として編制を開始、間もなく戦車部隊をより強力にした装甲師団に格上げされた。実戦経験豊かな士官が多かったので、実戦に即した猛訓練を積む。連合軍は、同師団を「ベイビー師団」「ミルク師団」と揶揄する宣伝を行ったが、1944年のノルマンディーにおける戦闘では、連合国上陸翌日にカーン攻略を目指すイギリス軍に損害を与え、フリッツ・ヴィット (de:Fritz Witt) 師団長と彼の戦死後に師団長を引き継いだクルト・マイヤーが率いる同師団が2カ月近くも勇猛に交戦するのを目の当たりにすることとなった。
しかし、カーン攻防戦で重装備のほとんどを失い、マイヤー師団長が撤退途中、捕虜となる。その後の再編・補充も充分でないままアルデンヌ攻勢に投入される。1945年、東部戦線に転じてハンガリーにおける武装親衛隊を主力とする最後の大攻勢(春の目覚め作戦)に参加し、壊滅的な打撃を受けた。その後、数少ない残部はオーストリアで終戦を迎えた。
ギャラリー
ヒトラーユーゲントのメンバー(1933年)
ナチス式敬礼を行うヒトラーユーゲント(1933年 ベルリン)
ヒトラーユーゲントの隊員(1933年5月)
軍事訓練で野外電話線敷設を行うヒトラーユーゲント2名(1933年)
ヒトラーユーゲントの金属屑収集活動(1938年)
青年記念碑(ドイツ語版) (1938年 ライプツィヒ)
ヒトラーユーゲントのキャンプ (1935年 中華民国)
小銃の取り扱い方法を習うヒトラーユーゲント (1943年)
軍事訓練キャンプ(ドイツ語版)で陸軍下士官から実弾射撃訓練を受けるヒトラーユーゲント。構えているのは軍制式小銃に似せた小口径ライフルである。
戦災家屋のがれきを片付けるヒトラーユーゲント (1943年)
フォーゲルザンク政治指導者学校を見学するヒトラーユーゲント隊員(1944年)
鉄十字章を授与される16歳の少年(1945年3月)
ヒトラーユーゲントのエンブレム
1930年代のヒトラーユーゲントの制服
ヒトラーユーゲントの入隊申告書 (1938年以降)
ヒトラーユーゲントの隊員証
少国民団・ヒトラーユーゲント兼用の活動記録帖
ヒトラーユーゲントの行進ドラム、バッジ、印刷物(ベルリンスタジアム)
制服1937年の団員の制服、制帽および肩章団員が授与出来るピン、バッジ、ゴルゲット、バックル、短剣