本家アメリカのヒッピー精神を引き継いだ一派は失敗して分裂し、長野県の八ヶ岳麓へと移転して村作りを行う一派が登場した[14][15]。 ヒッピーの他に新宿周辺にはフーテン族も現れた。1967年春頃に現れた新宿のフーテン族は昼間は新宿駅東口広場の芝生(馬の水飲み場、フーテン族側の呼称はグリーンハウス)に居たが、深夜は新宿二丁目のスナックバーに集まって睡眠薬のハイミナールや眠気覚ましのカフェインを摂りながら黒人と共にモダンジャズを踊っていたとされる[16]。 同1967年には新宿のフーテン族から桜井啓子が女優デビューしたものの、彼女はフーテン族の憧れにはならなかったとされる[16]。同1967年9月には新宿駅東口広場の芝生への立ち入りが禁止された[17]。 総理府青少年対策本部の『青少年白書 昭和44年版』によれば1968年の新宿において非行行為で補導されたフーテン少年は1,584人に上ったとされる[18]。 また新宿以外にもフーテン族は登場した。総理府青少年対策本部の『青少年白書 1968年版』によれば非行行為で補導されたフーテン少年は全国で1,479人、うち東京では904人、大阪では325人、名古屋では126人、福岡では89人、神戸では22人、京都では13人に上ったとされる[19]。 自ら神戸市のフーテンであったと自称する作家の中島らもは「ヒッピーとフーテンは違う[20]」と述べている。思想を持ち、そのためのツールとしての薬物使用を是とするヒッピーに対し「フーテンは思想がないんよ。ラリってるだけやん[20]」と評価し、ヒッピー・ムーブメントが生んだ文化のみを摂取してスローガンを持たなかった日本のフーテンと、ヒッピーとを同義化する風潮を批判すると同時に「自由ほど不自由なものはないんだよ[20]」と述べた。 1967年には月刊漫画ガロに新宿のフーテン族を漫画化した永島慎二『フーテン』が登場した。1968年には岡部道男により新宿を舞台としたアングラ映画『クレイジー・ラヴ』が作られた[21]。また同1968年には松竹から映画『日本ゲリラ時代』も登場した[22]。 1979年には「地下鉄の新宿駅」でヒッピー娘と出会う村上春樹の小説『風の歌を聴け』が登場した[23]。 サンフランシスコのヒッピー文化の前身であるビートニクスはコーヒーハウスやバーに集い、文学、チェス、音楽(ジャズやフォーク)、モダンダンス、伝統陶器や絵画のような工芸や芸術などを愛好していた。これに対してヒッピーたちは全体的にトーンが異なっていた。 60年代後半から80年代半ばまでグレイトフル・デッドのマネジャーだったジョン・マッキンタイア(Jon McIntire[24])はヒッピー文化の大きな貢献は「よろこびの表現」だったと指摘する。比較的にビートニクスは黒く冷たかった。 ヒッピーたちは、それまでの社会の規範から自分自身を解放し、自分で自分の道を選び、人生の新しい意味を見つけることを自発的かつ主体的に追求した。 初期には、その彩り豊かなファッションを通じて互いを認識し、その個性を尊重し合った。彼らは権威に疑問をもっているという意見を臆さずに表し、社会の硬さ-スクエアから距離をおいて利他主義と神秘主義、正直さ、よろこびと非暴力という価値を重んじた。 警察官がヒッピーをコントロールするために「ヒッピーのような服を着る」ようになったあと、そうしたファッションの概念そのものから離れるようになった。「誰が平和軍隊を必要としている?― Who Needs the Peace Corps?(1968)」という曲などでヒッピー精神を風刺したことで知られているロックミュージシャンのフランクザッパは、自身のライブにおいて「私たちはみな制服を着ているのだ。自分をごまかすんじゃないぜ」と聴衆に忠告した。 1960年代のサイケデリック・アート運動
新宿のフーテン族
その他のフーテン族
創作への影響が望まれています。
ヒッピーの特徴
アート
彼らの作品はすぐにアルバムのカバーアートに影響を与え、実際、前述のアーティストはみなアルバムカバーをデザインしていた。ライトショーはロックコンサートのために開発された新しい芸術形式だった。オーバーヘッドプロジェクターの大きな凸レンズにオイルと染料を入れた乳液をセットすることで、アーティストは音楽リズムに脈打つような液体のビジュアルをつくりだした。さらにスライドショーやフィルムループとミックスされ、即興の映像芸術をつくりだし、ロックバンドの即興演奏を視覚的に表現、観客にとって異世界へと「トリップ」するような雰囲気を醸しだした。
また「アングラコミック」という新しいジャンルの漫画が生まれた。ザップ・コミックス(英語版)はそのオリジナルのひとつであり、ロバート・クラム、S・クライ・ウィルソン(英語版)、ビクター・モスコソ、リック・グリフィン(英語版)、ロバート・ウィリアムス(英語版)らの作品を特集した。アングラコミックはハレンチできわどい風刺、ヘンなもののためのヘンなものを追求していたようだった。ギルバート・シェルトン(英語版)の『ファビュラス・フリー・フリーク・フリーズ・ブラザーズ(英語版)』は60年代ヒッピーの生活風景を風刺して映しだした。
彼らに先行するビートニクス、すぐ後につづいたパンク・ロックのように、ヒッピーのシンボルは意図的に「ローカルチャー」あるいは「プリミティブカルチャー」から取られ、ヒッピーファッションはしばしば「浮浪者スタイル」の反映だった。男も女もジーンズを履き、どちらも長髪だった。サンダルは、やがて裸足へと移行した。スティーヴ・ジョブズも大学生時代は裸足だったという。男性はひげを生やすことが多く、女性は化粧をほとんど、もしくはまったくせず、ノーブラジャー。ほかの白人中産階級のムーブメントと同じようにヒッピーたちは時代の「男女差」に挑戦し、ユニセックスだった。ヒゲをはやした若者も多かった。ボトムはゆるいベルボトムなのが、この時代のスタンダードだった。
ヒッピーはしばしば明るく鮮やかな色を選び、ベルボトム、ベスト、しぼり染めの衣服、ダシキ(アフリカの民族衣装)、農民風のブラウス、長い丈のスカートなど、当時としては風変わりな服を着た。ネイティブアメリカン、アジア、アフリカ、ラテンアメリカをモチーフとして使用した非西洋的な服飾文化にインスピレーションを受けたデザインも人気があった。ヒッピーの多くは、企業がつくる消費文化に反対して、手づくり、または古着を着た。
男女ともに人気だったアクセサリーは、ネイティブアメリカンジュエリー「ヘッドスカーフ、ヘッドバンド、バンダナ」、ロングビーズネックレスなどだった。ヒッピーの家、車、その他の所有物は、しばしばサイケデリックアートで飾られていた。 1940年代と1950年代のタイトでユニフォーム的な服には、大胆な色彩、手づくり、だぼだぼなルーズフィットで反対した。
また衣服の手づくりは自己肯定感を高め、個性的であると考えられ、企業が主役の消費主義を拒絶していた。
多くのヒッピーたちはカトリックやプロテスタントなどの主流宗教を拒絶し、彼らがより個人的なスピリチュアルな体験ができると考えた仏教、ヒンドゥー教、瞑想などを擁護した。それらの宗教は規則にしばられていないと見なされ、キリストの古い信仰と関連する可能性が低かった。 英国のオカルティスト、悪魔崇拝者のアレイスター・クロウリーは、およそ10年もの間ロックミュージシャンだけでなく、新しいニュー・オルタナ・スピリチュアル運動に影響を与えつづけるアイコンとなった。ビートルズは1967年のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のカバースリーブの登場人物の一人として彼を選んだ。1970年代のハードロック・バンド、レッド・ツェッペリンもクローリーに魅了され、彼の衣服、原稿、儀式物の一部を所有した。 また、ロックバンド、ドアーズもコンピレーション・アルバム『13』の裏表紙でジム・モリソンや他のドアーズのメンバーがクローリーの肖像とともにポーズをとり、ティモシー・リアリーもそのインスピレーションを認めている。ハーバード大学教授の心理学者ティモシー・リアリーは、オカルティストのアレイスター・クロウリーをヒッピーへの影響として引用している。
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