ヒッピー
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ラリってるだけやん[20]」と評価し、ヒッピー・ムーブメントが生んだ文化のみを摂取してスローガンを持たなかった日本のフーテンと、ヒッピーとを同義化する風潮を批判すると同時に「自由ほど不自由なものはないんだよ[20]」と述べた。



創作への影響

この節の加筆が望まれています。

1967年には月刊漫画ガロに新宿のフーテン族を漫画化した永島慎二『フーテン』が登場した。1968年には岡部道男により新宿を舞台としたアングラ映画『クレイジー・ラヴ』が作られた[21]。また同1968年には松竹から映画『日本ゲリラ時代』も登場した[22]

1979年には「地下鉄の新宿駅」でヒッピー娘と出会う村上春樹の小説『風の歌を聴け』が登場した[23]
ヒッピーの特徴

サンフランシスコのヒッピー文化の前身であるビートニクスはコーヒーハウスやバーに集い、文学、チェス、音楽(ジャズやフォーク)、モダンダンス、伝統陶器や絵画のような工芸や芸術などを愛好していた。これに対してヒッピーたちは全体的にトーンが異なっていた。 60年代後半から80年代半ばまでグレイトフル・デッドのマネジャーだったジョン・マッキンタイア(Jon McIntire[24])はヒッピー文化の大きな貢献は「よろこびの表現」だったと指摘する。比較的にビートニクスは黒く冷たかった。

ヒッピーたちは、それまでの社会の規範から自分自身を解放し、自分で自分の道を選び、人生の新しい意味を見つけることを自発的かつ主体的に追求した。

初期には、その彩り豊かなファッションを通じて互いを認識し、その個性を尊重し合った。彼らは権威に疑問をもっているという意見を臆さずに表し、社会の硬さ-スクエアから距離をおいて利他主義と神秘主義、正直さ、よろこびと非暴力という価値を重んじた。

警察官がヒッピーをコントロールするために「ヒッピーのような服を着る」ようになったあと、そうしたファッションの概念そのものから離れるようになった。「誰が平和軍隊を必要としている?― Who Needs the Peace Corps?(1968)」という曲などでヒッピー精神を風刺したことで知られているロックミュージシャンのフランクザッパは、自身のライブにおいて「私たちはみな制服を着ているのだ。自分をごまかすんじゃないぜ」と聴衆に忠告した。
アート

1960年代のサイケデリック・アート運動(英語版)の主役は、リック・グリフィン(英語版)、ビクター・モスコソ(英語版)、ボニー・マクリーン(英語版)、スタンリー・マウス&アルトン・ケリー(英語版)、そしてウェス・ウィルソン(英語版)など、サンフランシスコのポスターアーティストだった。彼らのロック・コンサートのポスターはアール・ヌーヴォーヴィクトリアン様式の美術(ビアズレーなど)、ダダイスムポップアートからインスピレーションをうけていた。フィルモア・ウェストのコンサート・ポスターはもっとも注目された。鮮やかなコントラスト、華やかなレタリング、強く対称な構図、コラージュ要素、歪み、ちょっと奇妙な画像、豊かな色彩などがその特徴で、このスタイルはおよそ1966年から1972年の間人気を保った。アマリロにあるアント・ファーム(英語版)のインスタレーション作品「キャディラック・ランチ(英語版)」

彼らの作品はすぐにアルバムのカバーアートに影響を与え、実際、前述のアーティストはみなアルバムカバーをデザインしていた。ライトショーはロックコンサートのために開発された新しい芸術形式だった。オーバーヘッドプロジェクターの大きな凸レンズにオイルと染料を入れた乳液をセットすることで、アーティストは音楽リズムに脈打つような液体のビジュアルをつくりだした。さらにスライドショーやフィルムループとミックスされ、即興の映像芸術をつくりだし、ロックバンドの即興演奏を視覚的に表現、観客にとって異世界へと「トリップ」するような雰囲気を醸しだした。

また「アングラコミック」という新しいジャンルの漫画が生まれた。ザップ・コミックス(英語版)はそのオリジナルのひとつであり、ロバート・クラム、S・クライ・ウィルソン(英語版)、ビクター・モスコソ、リック・グリフィン(英語版)、ロバート・ウィリアムス(英語版)らの作品を特集した。アングラコミックはハレンチできわどい風刺、ヘンなもののためのヘンなものを追求していたようだった。ギルバート・シェルトン(英語版)の『ファビュラス・フリー・フリーク・フリーズ・ブラザーズ(英語版)』は60年代ヒッピーの生活風景を風刺して映しだした。

彼らに先行するビートニクス、すぐ後につづいたパンク・ロックのように、ヒッピーのシンボルは意図的に「ローカルチャー」あるいは「プリミティブカルチャー」から取られ、ヒッピーファッションはしばしば「浮浪者スタイル」の反映だった。男も女もジーンズを履き、どちらも長髪だった。サンダルは、やがて裸足へと移行した。スティーヴ・ジョブズも大学生時代は裸足だったという。男性はひげを生やすことが多く、女性は化粧をほとんど、もしくはまったくせず、ノーブラジャー。ほかの白人中産階級のムーブメントと同じようにヒッピーたちは時代の「男女差」に挑戦し、ユニセックスだった。ヒゲをはやした若者も多かった。ボトムはゆるいベルボトムなのが、この時代のスタンダードだった。

ヒッピーはしばしば明るく鮮やかな色を選び、ベルボトム、ベスト、しぼり染めの衣服、ダシキ(アフリカの民族衣装)、農民風のブラウス、長い丈のスカートなど、当時としては風変わりな服を着た。ネイティブアメリカン、アジア、アフリカ、ラテンアメリカをモチーフとして使用した非西洋的な服飾文化にインスピレーションを受けたデザインも人気があった。ヒッピーの多くは、企業がつくる消費文化に反対して、手づくり、または古着を着た。

男女ともに人気だったアクセサリーは、ネイティブアメリカンジュエリー「ヘッドスカーフ、ヘッドバンド、バンダナ」、ロングビーズネックレスなどだった。ヒッピーの家、車、その他の所有物は、しばしばサイケデリックアートで飾られていた。 1940年代と1950年代のタイトでユニフォーム的な服には、大胆な色彩、手づくり、だぼだぼなルーズフィットで反対した。

また衣服の手づくりは自己肯定感を高め、個性的であると考えられ、企業が主役の消費主義を拒絶していた。



思想と宗教

多くのヒッピーたちはカトリックやプロテスタントなどの主流宗教を拒絶し、彼らがより個人的なスピリチュアルな体験ができると考えた仏教ヒンドゥー教、瞑想などを擁護した。それらの宗教は規則にしばられていないと見なされ、キリストの古い信仰と関連する可能性が低かった。

英国のオカルティスト、悪魔崇拝者のアレイスター・クロウリーは、およそ10年もの間ロックミュージシャンだけでなく、新しいニュー・オルタナ・スピリチュアル運動に影響を与えつづけるアイコンとなった。ビートルズは1967年のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のカバースリーブの登場人物の一人として彼を選んだ。1970年代のハードロック・バンド、レッド・ツェッペリンもクローリーに魅了され、彼の衣服、原稿、儀式物の一部を所有した。 また、ロックバンド、ドアーズもコンピレーション・アルバム『13』の裏表紙でジム・モリソンや他のドアーズのメンバーがクローリーの肖像とともにポーズをとり、ティモシー・リアリーもそのインスピレーションを認めている。ハーバード大学教授の心理学者ティモシー・リアリーは、オカルティストのアレイスター・クロウリーをヒッピーへの影響として引用している。 1960年代には、ヒンドゥー教とヨガに対する西洋の関心がピークを迎え、西洋人が説く多くのネオ・ヒンズー教の学校が生まれた。

1991年、宗教学者ティモシー・ミラー(英語版)はその著書「ヒッピーとアメリカの価値(Hippies and American Values)」の中で、ヒッピーの特徴を主流な宗教機関の限界を越えようとする「宗教的運動」と表現していた。 「多くの異なる宗教と同じように、ヒッピーは主流文化の宗教機関に非常に敵対的であり、支配的な宗教がし損なった務めを行うための新しいよりよい方法を見つけようとした」とした。

「ヒッピーの旅(The Hippie Trip)」の著者ルイス・ヤブロンスキー(ドイツ語版)は、ヒッピーたちの間でもっとも尊敬されていたのは、その時代にあらわれた霊的指導者、いわゆる 「大司祭」だったと指摘する。それはサンフランシスコ州立大学のスティーヴン・ガスキン(英語版)教授だった。 1966年にはじまったガスキンの「マンデーナイト・クラス」は最終的に講義ホールにまで膨らみ、キリスト教、仏教、ヒンズー教の教えから導きだされたスピリチャルな価値についてオープンな議論をし、1500人ものヒッピーの信者を集めた。 1970年にガスキンは「ザ・ファーム(The Farm)」というテネシー州コミュニティを設立し、今でも彼は彼の宗教を「ヒッピー(Hippie)」と記入している。

ティモシー・リアリーはアメリカのハーバード大学の教授、心理学者、作家であり、サイケデリックな薬物の擁護者として知られている。 リアリーは1966年9月19日、ドラッグのLSDを「神聖なる聖餐」として宣言する宗教団体「スピリチュアル・ディスカバリー同盟(英語版)」(略称LSD)」を設立した。信仰の自由に基づいてLSDや他のドラッグを瞑想等にも用いるための法的地位を維持しようとしたが失敗した。ちなみに、このようなサイケデリック体験は、ビートルズのアルバム『リボルバー』に収録の「トゥモロー・ネバー・ノウズ」にインスピレーションを与えている。彼は1967年に「あなた自身の宗教をはじめよう」というパンフレットを発行し、1月14日、サンフランシスコで3万人のヒッピーが集まった「ヒューマン・ビー・イン」に招待され、そこで有名な「Turn on, tune in, drop out」というフレーズを唱えた。

ティモシー・リアリーは60年代の若者に強い影響力を持っていた。カリフォルニア州知事選挙に立候補を表明したこともある。ジョン・レノンが作曲したビートルズの曲「カム・トゥゲザー」は、リアリーの選挙キャンペーンのために書かれた曲だが、結局、リアリーは選挙に出馬することができなかった。

ラルフ・ネーダー環境問題や消費者の権利保護運動のリーダーで思想家だった。ヒッピー運動が終わった後も活動を続け、独立系や緑の党の候補として、複数回大統領選挙に出馬している。


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