ヒッピー
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アフロアメリカンであり、ブラックパンサーの共同設立者ボビー・シール[13]は、イッピーズの白人リーダーのジェリー・ルービンと議論をおこなった。
日本のヒッピー

1960年代後半の日本において、フォークロック岡林信康萩原健一カルメンマキフォーククルセダーズソルティシュガーらが登場した。また、映画・演劇・アートでは若松孝二寺山修司大島渚横尾忠則、女優の緑魔子横山リエらが活躍した。
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芸術的なヒッピー族は新宿角筈風月堂が発信基地となった。文化人類学者深作光貞によれば風月堂はヨーロッパのパリを拠点とする世界的ヒッピーネットワークの一部になっていたとされる[14]
長野のヒッピー族

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本家アメリカのヒッピー精神を引き継いだ一派は失敗して分裂し、長野県の八ヶ岳麓へと移転して村作りを行う一派が登場した[14][15]
新宿のフーテン族

ヒッピーの他に新宿周辺にはフーテン族も現れた。1967年春頃に現れた新宿のフーテン族は昼間は新宿駅東口広場の芝生(馬の水飲み場、フーテン族側の呼称はグリーンハウス)に居たが、深夜は新宿二丁目スナックバーに集まって睡眠薬のハイミナールや眠気覚ましのカフェインを摂りながら黒人と共にモダンジャズを踊っていたとされる[16]

同1967年には新宿のフーテン族から桜井啓子が女優デビューしたものの、彼女はフーテン族の憧れにはならなかったとされる[16]。同1967年9月には新宿駅東口広場の芝生への立ち入りが禁止された[17]

総理府青少年対策本部の『青少年白書 昭和44年版』によれば1968年の新宿において非行行為で補導されたフーテン少年は1,584人に上ったとされる[18]
その他のフーテン族

また新宿以外にもフーテン族は登場した。総理府青少年対策本部の『青少年白書 1968年版』によれば非行行為で補導されたフーテン少年は全国で1,479人、うち東京では904人、大阪では325人、名古屋では126人、福岡では89人、神戸では22人、京都では13人に上ったとされる[19]

自ら神戸市のフーテンであったと自称する作家の中島らもは「ヒッピーとフーテンは違う[20]」と述べている。思想を持ち、そのためのツールとしての薬物使用を是とするヒッピーに対し「フーテンは思想がないんよ。ラリってるだけやん[20]」と評価し、ヒッピー・ムーブメントが生んだ文化のみを摂取してスローガンを持たなかった日本のフーテンと、ヒッピーとを同義化する風潮を批判すると同時に「自由ほど不自由なものはないんだよ[20]」と述べた。



創作への影響

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1967年には月刊漫画ガロに新宿のフーテン族を漫画化した永島慎二『フーテン』が登場した。1968年には岡部道男により新宿を舞台としたアングラ映画『クレイジー・ラヴ』が作られた[21]。また同1968年には松竹から映画『日本ゲリラ時代』も登場した[22]

1979年には「地下鉄の新宿駅」でヒッピー娘と出会う村上春樹の小説『風の歌を聴け』が登場した[23]
ヒッピーの特徴

サンフランシスコのヒッピー文化の前身であるビートニクスはコーヒーハウスやバーに集い、文学、チェス、音楽(ジャズやフォーク)、モダンダンス、伝統陶器や絵画のような工芸や芸術などを愛好していた。これに対してヒッピーたちは全体的にトーンが異なっていた。 60年代後半から80年代半ばまでグレイトフル・デッドのマネジャーだったジョン・マッキンタイア(Jon McIntire[24])はヒッピー文化の大きな貢献は「よろこびの表現」だったと指摘する。比較的にビートニクスは黒く冷たかった。

ヒッピーたちは、それまでの社会の規範から自分自身を解放し、自分で自分の道を選び、人生の新しい意味を見つけることを自発的かつ主体的に追求した。

初期には、その彩り豊かなファッションを通じて互いを認識し、その個性を尊重し合った。彼らは権威に疑問をもっているという意見を臆さずに表し、社会の硬さ-スクエアから距離をおいて利他主義と神秘主義、正直さ、よろこびと非暴力という価値を重んじた。

警察官がヒッピーをコントロールするために「ヒッピーのような服を着る」ようになったあと、そうしたファッションの概念そのものから離れるようになった。「誰が平和軍隊を必要としている?― Who Needs the Peace Corps?(1968)」という曲などでヒッピー精神を風刺したことで知られているロックミュージシャンのフランクザッパは、自身のライブにおいて「私たちはみな制服を着ているのだ。自分をごまかすんじゃないぜ」と聴衆に忠告した。
アート

1960年代のサイケデリック・アート運動(英語版)の主役は、リック・グリフィン(英語版)、ビクター・モスコソ(英語版)、ボニー・マクリーン(英語版)、スタンリー・マウス&アルトン・ケリー(英語版)、そしてウェス・ウィルソン(英語版)など、サンフランシスコのポスターアーティストだった。彼らのロック・コンサートのポスターはアール・ヌーヴォーヴィクトリアン様式の美術(ビアズレーなど)、ダダイスムポップアートからインスピレーションをうけていた。フィルモア・ウェストのコンサート・ポスターはもっとも注目された。鮮やかなコントラスト、華やかなレタリング、強く対称な構図、コラージュ要素、歪み、ちょっと奇妙な画像、豊かな色彩などがその特徴で、このスタイルはおよそ1966年から1972年の間人気を保った。アマリロにあるアント・ファーム(英語版)のインスタレーション作品「キャディラック・ランチ(英語版)」

彼らの作品はすぐにアルバムのカバーアートに影響を与え、実際、前述のアーティストはみなアルバムカバーをデザインしていた。ライトショーはロックコンサートのために開発された新しい芸術形式だった。オーバーヘッドプロジェクターの大きな凸レンズにオイルと染料を入れた乳液をセットすることで、アーティストは音楽リズムに脈打つような液体のビジュアルをつくりだした。さらにスライドショーやフィルムループとミックスされ、即興の映像芸術をつくりだし、ロックバンドの即興演奏を視覚的に表現、観客にとって異世界へと「トリップ」するような雰囲気を醸しだした。

また「アングラコミック」という新しいジャンルの漫画が生まれた。ザップ・コミックス(英語版)はそのオリジナルのひとつであり、ロバート・クラム、S・クライ・ウィルソン(英語版)、ビクター・モスコソ、リック・グリフィン(英語版)、ロバート・ウィリアムス(英語版)らの作品を特集した。アングラコミックはハレンチできわどい風刺、ヘンなもののためのヘンなものを追求していたようだった。ギルバート・シェルトン(英語版)の『ファビュラス・フリー・フリーク・フリーズ・ブラザーズ(英語版)』は60年代ヒッピーの生活風景を風刺して映しだした。

彼らに先行するビートニクス、すぐ後につづいたパンク・ロックのように、ヒッピーのシンボルは意図的に「ローカルチャー」あるいは「プリミティブカルチャー」から取られ、ヒッピーファッションはしばしば「浮浪者スタイル」の反映だった。


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