ヒッピー
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グレイトフル・デッドとフィッシュが活動をやめたこと[注 4]によって、夏フェスはヒッピー・トラベラーたちによる盛り上がりを見せている。一番大きなものは、2002年に始まった「ボナルー・フェスティバル [注 5]である。「オレゴン・カントリー・フェア(英語版)」は、3日間の手作りフェスティバルで、手づくりの工芸品、教育用ディスプレイ、エンターテイメントなコスチュームなどがある。
セックス革命

ヒッピーのセックスに対する一般大衆によるイメージは「フリーセックスを好み、乱脈なセックスを広めている」というイメージだった。ヒッピーたちはセックス革命を主張し、保守的なセックス観に挑戦する立場をとっていた。ジョンとヨーコは「平和のためのベッド・イン」ラブ・イン(英語版)(愛の集会)で、反戦平和を主張した。1966年、研究チーム「マスターズ・アンド・ジョンソン(英語版)」によってセックスの臨床研究 "Human Sexual Response" が出版された。しばらくの小康状態を経て、1969年、精神科医デビット・ルーベン(英語版)が「あなたがいつも知りたいセックスについてのすべてのこと(でもあなたがきくのを恐れていたこと)―Everything You Always Wanted to Know About Sex (But Were Afraid to Ask))」を出版するとこの話題は突如アメリカでブームなった。これは性に関する一般の人たちの好奇心にこたえるための試みだった。1972年には、イギリス人科学者アレックス・コンフォート(Alex Comfort)によるセックス・マニュアル『ジョイ・オブ・セックス(英語版)』が出版され、より素直な「メイク・ラブ(Make Love)」への認識がしめされた。このときまでにセックスの「遊び」や「たのしみ」の側面はこれまで以上に公然と議論されるようになっていた。この啓発的な見解はこれらの本の出版だけでなく、より広く普及したセックス革命によってしばらく前から進行中だった。
ドラッグ乾燥大麻とパイプ。ヒッピーはマリファナを良性ドラッグとして愛好する一方で、アルコール類を摂取しない者も一部にいた。

ビートニクスにつづいて、多くのヒッピーは大麻(マリファナ)を使用し、それを楽しく良性な薬物であると考えた。彼らは魂の薬学として、マジック・マッシュルーム、コカイン、ヘロイン、メスカリン(サボテンのペヨーテが成分を含む)やLSDなどに使用を拡大した。ジョン・レノンの「コールド・ターキー」は彼の食中毒体験を歌詞にした曲だったが、人々はヘロインからの脱却を歌ったものと勘違いした[12]

ハーバード大学の教授ティモシー・リアリーラルフ・メツナー、ラム・ダスことリチャード・アルパート(英語版)らは、米国東海岸で精神療法、自己探求、宗教的精神的使用のための向精神薬を提唱した。 リアリーはLSDに関して「意識を広げ、エクスタシーと啓示を自分の内面に見つけられる」と述べた。

西海岸では、作家のケン・キージーがLSDのレクリエーション利用を促進する重要な人物だった。それは「アシッド」として知られ、彼は「アシッド・テスト―LSD実験」と呼んでいた。キージーはサイケデリック集団「メリー・プランクスターズ」と共にアメリカ大陸をツアーしメディアの注目を集め、多くの若者をサイケデリックカルチャーへと導いた。グレイトフル・デッド(元々は「ザ・ウォーロック」と呼ばれていた)は「アシッド・テスト」での最初の演奏をした。
政治

ロナルド・クレアは、ヒッピー社会主義が、カウンターカルチャーのクリエーションをつうじて社会の変容を願うことだとし、これは多かれ少なかれ自由な社会の中で理想的なコミュニティを作り上げようとする欲求だとした[注 6]ピースマーク。これは元来核軍縮のキャンペーンのロゴだったが、それをベトナム反戦デモの参加者が使用して、世界に広まった。今日では「世界平和」を願う象徴のひとつでもある。

ピースマーク」は核軍縮キャンペーンのロゴとして英国で開発されたもので、1960年代にアメリカの反戦デモの参加者たちの間でポピュラーになった。ヒッピーは大抵は平和主義者であり、市民権運動、ワシントンD.C.の行進、ドラフトカードの焼却や1968年の民主党全国大会の抗議、反ベトナム戦争デモなど、非暴力的政治デモに参加した。政治的な関与の度合いは平和デモに参加していた人々から、アンチ権威主義的なストリートシアターやデモンストレーションをするヒッピーの政治的サブグループ「イッピーズ」(青年国際党)に至るまで幅広かった。

アフロアメリカンであり、ブラックパンサーの共同設立者ボビー・シール[13]は、イッピーズの白人リーダーのジェリー・ルービンと議論をおこなった。
日本のヒッピー

1960年代後半の日本において、フォークロック岡林信康萩原健一カルメンマキフォーククルセダーズソルティシュガーらが登場した。また、映画・演劇・アートでは若松孝二寺山修司大島渚横尾忠則、女優の緑魔子横山リエらが活躍した。
新宿のヒッピー族.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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芸術的なヒッピー族は新宿角筈風月堂が発信基地となった。文化人類学者深作光貞によれば風月堂はヨーロッパのパリを拠点とする世界的ヒッピーネットワークの一部になっていたとされる[14]
長野のヒッピー族

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本家アメリカのヒッピー精神を引き継いだ一派は失敗して分裂し、長野県の八ヶ岳麓へと移転して村作りを行う一派が登場した[14][15]。「ヒッピー#地名」も参照
新宿のフーテン族

ヒッピーの他に新宿周辺にはフーテン族も現れた。1967年春頃に現れた新宿のフーテン族は昼間は新宿駅東口広場の芝生(馬の水飲み場、フーテン族側の呼称はグリーンハウス)に居たが、深夜は新宿二丁目スナックバーに集まって睡眠薬のハイミナールや眠気覚ましのカフェインを摂りながら黒人と共にモダンジャズを踊っていたとされる[16]

同1967年には新宿のフーテン族から桜井啓子が女優デビューしたものの、彼女はフーテン族の憧れにはならなかったとされる[16]。同1967年9月には新宿駅東口広場の芝生への立ち入りが禁止された[17]

総理府青少年対策本部の『青少年白書 昭和44年版』によれば1968年の新宿において非行行為で補導されたフーテン少年は1,584人に上ったとされる[18]
その他のフーテン族

また新宿以外にもフーテン族は登場した。総理府青少年対策本部の『青少年白書 1968年版』によれば非行行為で補導されたフーテン少年は全国で1,479人、うち東京では904人、大阪では325人、名古屋では126人、福岡では89人、神戸では22人、京都では13人に上ったとされる[19]

自ら神戸市のフーテンであったと自称する作家の中島らもは「ヒッピーとフーテンは違う[20]」と述べている。思想を持ち、そのためのツールとしての薬物使用を是とするヒッピーに対し「フーテンは思想がないんよ。ラリってるだけやん[20]」と評価し、ヒッピー・ムーブメントが生んだ文化のみを摂取してスローガンを持たなかった日本のフーテンと、ヒッピーとを同義化する風潮を批判すると同時に「自由ほど不自由なものはないんだよ[20]」と述べた。



創作への影響

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