ヒッピー
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実社会の中で、ユートピアが訪れることはなかったが、その憧れは21世紀において、サブカルチャーに留まらず、欧米の主流文化の中でより一般化されたものとなった。Appleをはじめとした米西海岸のコンピューター文化、ロック音楽や映画、美術、文学、舞踏、アメリカン・アニメといった大衆文化ヴィーガニズム菜食主義などより自然志向の食文化、東洋的な精神への関心は高まりつづけている。
詳細ニール・ヤング。ヒッピー時代のミュージシャン。

ヒッピー的な自然回帰を志向する傾向は、古くから欧米に存在していた。中世の宗教家、アッシジ聖フランシスコ、さらに性の解放を歌ったコレット、フランスの作家セリーヌプルースト、不条理作家フランツ・カフカ、アイルランドの哲学者アイリス・マードック、米国の実存主義作家ソール・ベロー、ユダヤ人作家バーナード・マラマッド[3]、あるいは「森の生活」の著者ヘンリー・デイヴィッド・ソローや19世紀の詩人ウォルト・ホイットマンホビットの冒険」「指輪物語」のJ・R・R・トールキン、20世紀ではビートニクスギンズバーグバロウズケルアック、また画家ではピカソデ・クーニングベン・シャーンレジェコクトーなどがヒッピーに好まれた[3]

19世紀末から20世紀初頭ドイツのユースカルチャー「ワンダーフォーゲル」は、当時の保守的な社会や文化に対する「カウンター・カルチャー」的な側面をもっていた。また保守的、伝統的なドイツのクラブの形式に反して、フォーク・ソングを愛好し、創造的な服装、アウトドア・ライフを志向した。しかしナチス政権時代には、ワンゲルの若者の一部はナチス支持に流れた。

20世紀にはドイツ人がアメリカに移住し、ドイツの若者文化をアメリカにもたらした。彼らの一部は南カリフォルニアに住み、何軒かの最初の健康食品店がオープンした。ネイチャーボーイズとよばれるグループは、カリフォルニアの砂漠で有機食品を育て、自然を愛するライフスタイルを実践した。 ソングライターのエデン・アーベ(英語版)は健康意識やヨガ、有機食品の普及をすすめた俳優のジプシー・ブーツ(英語版)からインスピレーションを受け「Nature Boy 」(1947)[4]という曲を書き、ヒットし、ジャズのスタンダードとなった。尚21世紀の日本のワンゲル部は、60年代70年代の大学でのシゴキ、リンチ事件も影響して、体育会系の保守的なクラブとの見方が強くなった。
歴史詳細は「ヒッピーの歴史(英語版)」を参照
1965年-1974年.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}それは新しいことではない。 私たちはプライベートな革命を続けています。 個性と多様性の革命は「私的」でしかない。 集団になると、そのような革命は「参加者」ではなく、「模倣者」に終わってしまうのです。それは本質的にひとりの人間と別の人間との関係を実現するための努力なのです。—ボブ・スタッブス、『Unicorn Philosophy』

1950年代後半から1960年代初頭にかけて、作家ケン・キージーとそのサイケデリック集団「メリー・プランクスターズ(陽気ないたずらっ子たち)」がカリフォルニアで共同生活をはじめた[5]。メンバーには、ビートジェネレーションのヒーロー、ニール・キャサディスチュアート・ブランド、ケン・バッブス(英語版)らがふくまれていた。その生活は作家トム・ウルフの『The Electric Kool-Aid Acid Test(英語版)』という書籍にまとめられた。

1964年、「メリー・プランクスターズ」はニューヨークで催された世界博覧会をおとずれるため、車体を鮮やかに装飾した「ファーザー号」に乗って、米国横断のサイケデリックバスツアーにでる。旅の道中、彼らは、大麻、アンフェタミン、LSDを服用し、そのバスツアーの様子を録画、映画祭やコンサート上で一般に公開し、臨場感のあるマルチメディア体験をつくりだし、多くの観客を「Turn on(興奮)」させた。のちにグレイトフル・デッドはメリー・プランクスターズのバス旅行について、『That's It for the Other One(英語版)』という曲をかいている。メリープランクスターズのサイケデリック・バス「ファーザー号」。このバスに乗って、アメリカを横断し、道中、LSDによるアシッドテストが繰りひろげられた。

この間、ニューヨーク市のグリニッジ・ビレッジとカリフォルニア州バークレーでは「フォークソング」のサーキットがはじまった。バークレーの2つのコーヒーショップ「キャバレー・クリーメリー」と「ジャバウォック」がその演奏をサポートした。 1963年4月「キャバレー・クリーメリー」の共同設立者であるチャンドラー・ラフリン3世は、夜行われる伝統的なネイティブ・アメリカンの儀式をこころみ、50人近い観客とペヨーテによる家族的なアイデンティティーを結んだ。この儀式は最先端のサイケデリック体験と伝統的なネイティブアメリカンの精神価値とを結びつけた。また彼らは、ネバダ州バージニアシティの孤立した旧鉱山街のレッド・ドッグ・サルーン(英語版)でのパフォーマンスも後援した。ジェリー・ガルシア。サンフランシスコを代表するバンド、グレイトフル・デッドのギターリスト。デッドは「デッドヘッズ」という熱狂的なファンをもち、結成当初から高い人気を誇った。

1965年夏、伝統的なフォークとサイケデリック・ミュージックを融合したそれまで聞いたことのなかったグレイトフル・デッドジェファーソン・エアプレインビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニークイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスザ・シャーラタンズなど実験精神に満ちたバンド群が現れた。彼らの個性的なスタイルと、ビル・ハム(英語版)による最初のプリミティブな光のショーが組みあわされ、あたらしいコミュニティー感覚が生まれた。そのライブにはバンドと聴衆の間での明確な線びきはなく、双方の一体感が高まるものだった。 ザ・シャーラタンズのヴォーカリスト、ジョージ・ハンターは19世紀のアメリカ人(またはアメリカ先住民族)の遺産でもある長い髪、ブーツ、アウトレイジなファッションでステージを飾った。 彼らはLSDから生じた「音」を意図せぬままに演奏する最初のサイケデリック・ロック・バンドとなった。

1966年、カリフォルニア州はLSDの拡大を見て、この薬物を非合法化した[6]。「レッド・ドッグ・サルーン」の参加者ルリア・キャステルらは、サンフランシスコで「ザ・ファミリードッグ(The Family Dog)」という集団をつくった。1965年10月16日、ベイエリアのオリジナルヒッピー約1,000人が出席し、サンフランシスコ初となる「サイケ・ロック」コスチュームダンス、および「ライトショー」が組みあわされたライブを行った。ジェファーソン・エアプレインをはじめ、グレート・ソサエティ(英語版)、マーブルズ(英語版)が出演し、年末までに2つのイベントが続いた。明くる1966年1月21日-23日、サンフランシスコの「ロングショアマンズ・ホール[7]」で「ザ・トリップ・フェスティバル」というさらに大規模なサイケデリックイベントが催された。ケン・キージースチュアート・ブランドらが主催し、チケットはソールドアウトとなり、のべ一万人ものヒッピーが参加した。 1月22日、グレイトフル・デッドとビッグ・ブラザーとホールディング・カンパニーがステージに参加、約6,000人は観客はLSD入りのパーティードリンクを飲み、その時代はじめて開発されたライトショーの宴に酔った。

1966年2月までにファミリードッグは主催者チェット・ヘルムスのもとでファミリードッグ・プロダクションとなり、のちに有名なプロモーターとなるビル・グレアム(英語版)との共同作業をはじめ「アバロン・ボールルーム(英語版)」「フィルモア・ウエスト(英語版)」でのイベントを進めた。イベント参加者は完全なサイケデリックミュージックを体験することができた。オリジナルの「レッド・ドッグ・ライトショー」を開拓したビル・ハムは、ライトショーと映画投影を組み合わせたリキッドライトプロジェクションの技術を完成させ、それはサンフランシスコの「ボールルーム(ダンスフロア)体験」と同義語になった。彼らのファッションは、サンフランシスコのフォックス・シアターが廃棄した衣装をヒッピーたちが買ったことにはじまり、毎週ミュージカル公演があったことから、自分の好きな舞台衣装でイベント会場を飾ることができた。サンフランシスコ・クロニクルの音楽コラムニスト、ラルフ・J・グリーソン(英語版)は「彼らは一晩中飲み騒ぎ、自発的かつ自由に踊った」と述べている。


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