ヒクソス
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そして数々の文献史料や考古学的発見によって「アジア人」のエジプト移住が、第1中間期から継続的に行われていたことが判明しているのである[23]。学者の中には、ヒクソスによるエジプト支配は外部からの侵入によるのではなく、エジプト内部での単なる政権交代に過ぎないとする説を唱える者もあり、広い支持を得ている[5]

実際に当時の僅かな記録からは、ヒクソス(第15王朝)に仕えたエジプト人官僚の存在が明らかとなっており、またヒクソスがエジプト文化を特に排斥した形跡も見つかっていない。むしろ逆にエジプトの伝統を数多く導入しており、王名もエジプト式にカルトゥーシュに囲んで表記された[5]。ヒクソスと同時代に彼らの支配地に生きたエジプト人の多くは、それほど強く「異民族支配」を意識することは無かったとも言われている[24]
宗教

「ヒクソス」を含むアジア人の移住者達は、シリア・パレスチナ系の神々をエジプトに持ち込んだ。代表的なものは北シリア地方の嵐の神で船乗りの守護神であったバアル・ゼフォンである。この神がエジプトの嵐の神セトと同一視されたため、元来上エジプトの神であったセト神が下エジプト東部で強い崇拝を受けることになった[25]

ヒクソスの拠点となったアヴァリスでは、第14王朝時代にセト神が主神となった。このことは第14王朝の王ネヘシに対する修辞の1つに「フト・ウアレト(アヴァリス)の主、セト神に愛されし者」という表現があることから知られる[26]

葬制についてはより顕著にシリア・パレスチナの影響を見ることができる。というのは、この時期のアジア系の人物の墓では頭を北に、顔を東に向けるという伝統的なエジプトの埋葬法とは異なり、死者の頭を南にして顔を東に向けるという埋葬法が取られており、墓にはシリア・パレスチナ風にロバ副葬されているのである[15]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ この誤訳はマネトの『エジプト史』を引用したヨセフスがヒクソスを「牧人王」あるいは「捕虜となった牧人」という意味であると述べたことによる[7]
^ マネトの『エジプト史』は現存しない史料である。本記録はフラウィウス・ヨセフスの著作『アピオーンへの反論』での引用によって現代に伝わっている。訳文は参考文献『ヒュクソスのエジプト支配』p. 150に依った。また ⇒第15王朝(Barbaroi!)にて、全文を読むことができる。
^ 訳文は参考文献『ヒュクソスのエジプト支配』p. 161に依った。

出典^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年1月2日閲覧。
^ フィネガン 1983, p.289
^ 屋形ら 1998, p. 452
^ ドドソン, ヒルトン 2012, pp. 116,285
^ a b c 古代エジプト百科 1997, pp. 439-431「ヒクソス」の項目より
^ クレイトン 1999, p.119
^ 大城 2012, pp. 52-53
^ a b c d e セーテルベルク 1973, pp. 149-150
^ a b c d e セーテルベルク 1973, pp. 151-155
^ 大城 2012, p. 68
^ 屋形ら 1998, pp.451-455
^ フィネガン 1983, pp. 288-291
^ セーテルベルク 1973, p. 165
^ 古代オリエント事典 2004, p.428, 「ヒクソス」の項目より
^ a b 近藤 1997, p. 120
^ 周藤 2006, p. 54
^ 大城 2012, pp. 70-71
^ クレイトン 1999, p, 121


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