ヒイズミマサユ機
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その頃に音楽教室の先生からチック・コリアハービー・ハンコックといったジャズの巨匠たちを教えてもらい、ジャズやフュージョンに惹かれていった[3]。高校に進学すると、テクノ打ち込み系、当時流行っていたジャミロクワイアシッドジャズなどをよく聴いていた[4]。また使用していた機材に入っていたデモ曲も好きで、そこからインスピレーションを受けて作曲することもあった。
名義
ヒイズミマサユ機

PE'Zとしての活動時、及び他のアーティストをサポートする際に使用される。
H ZETT M

ソロおよびH ZETTRIOでの活動の際に使用される。鼻を青く、瞼を黒く塗った出で立ちをする。またこの名義が誕生して以降は、他のアーティストへの楽曲提供・アレンジ・プロデュース、コラボ活動等は主にこちらで行っている。
H是都M

東京事変(第一期)での活動において使用された。読み方は「えいちぜっとえむ」。当初、東京事変がまだ椎名林檎のバックバンドだった頃にサポートメンバーとして参加した際はヒーズミ マサユ季の名義を使用していたが、バンドのデビュー宣言にともない変更した。
HZM

もともとはヒイズミの略称であったが、のちにヒイズミマサユ機の略でも可とした。
H ZETT Mとヒイズミマサユ機

H ZETT Mとヒイズミマサユ機は同一人物であるが、設定上は「お友達」[5]・「知り合い」であくまで別人だと主張し、同一人物だということをやんわりと否定している。そのため、お互いの作品を宣伝するときには「お友達(知り合い)のH ZETT Mくんが…」「お友達(知り合い)のヒイズミマサユ機くんが…」という言い方をする。また、東京事変時代のバンド名義「H是都M」を名乗っていたときには、まだ別人だという設定はなかった[注 2] ため、椎名林檎はROCKIN'ON JAPAN誌上でH ZETT Mのことを「ヒイズミ君が…」と発言している。インタビューでH ZETT Mが「ヒイズミという名前がファーストとしてあり、僕はセカンド。本当の自分は多分サード」と表現したこともある[6]。2012年7月のnicoradioでH ZETT Mが「ヒイズミマサユ機ははとこ、H是都Mはいとこ」と発言している。
来歴詳細は「PE'Z」、「東京事変」、および「H ZETTRIO」を参照

物心がつく前から自宅にあった足踏みオルガンで遊んでいたが、4歳になってピアノ教室へ通うようになり、小学校の低学年の頃には自分で曲を作るようになる[3]。次に教室にあったエレクトーンに興味を持ち始め、頭の中で思い描いた音のイメージを具体的に再現できる打ち込みにも熱中するようになる[3]

1992年2月2日、中学2年生で「ジュニアエレクトーンフェスティバル'91」[7] 全日本大会に関東甲信越地区から出場し、自作曲「ILLUSION」を演奏して中学生部門銅賞を受賞した[3]

高校入試を経て音楽大学の付属高校に進学し、数少ない男子の中でクラシック以外の音楽も好きな人たちと意気投合してバンドを組み、ジャズやフュージョンを中心に演奏し、時々オリジナル曲もやるようになる[3]

1995年、「G7情報通信関係閣僚会議」(Global Information Infrastructureジュニアサミット)に参加し、世界各国から41名で会議する。

高校を卒業して国立音楽大学作曲科へと進むと、1999年にそこで知り合ったメンバーを中心にPE'Zを結成する(ヒイズミマサユ機名義)[注 3]。同年10月15日、渋谷の路上を中心にストリートライブを開始する。
2001年


2月21日、PE'Zが1stミニアルバム『pe'z』でインディーズ・デビュー。

2002年


4月11日、PE'Zが1stミニアルバム『Akatsuki』でメジャー・デビュー。

2003年


7月18日、新宿ロフトにてJIGHEADレコ発ライブにシークレットで出演する東京事変にヒーズミマサユ季名義で参加する。

8月23日 - 9月27日椎名林檎実演ツアー「雙六エクスタシー[注 4] にバックバンド東京事変のメンバーとして出演する。

2004年


5月30日、東京事変がデビュー宣言を発表、本格的に活動を開始する。その第1期メンバーとして参加するのにともない、名義をH是都Mへと変更する。

9月8日、東京事変が1stシングル「群青日和」でメジャー・デビューする。

2005年


1月15日、東京事変がライブ「巻舌 発祥地記念 ?導火線はこちら? yokosuka dynamite!」をよこすか芸術劇場にて開催する。

1月17日 - 3月16日、「東京事変 live tour 2005"dynamite!"」を開催する。

7月1日、PE'Zの活動に専念することを理由に東京事変を脱退するとの声明を発表する。

2007年


1月10日、H ZETT M名義で1stアルバム『5+2=11』を発売し、ソロとしてメジャー・デビュー[注 5] する。

2008年


2月13日、アルバム『PIANOHEAD』をリリース。リード・トラックは女性アーティストHiro:nとのデュエット「ダイキライ feat.HIRO:N」[8]

映像集団OVER HEADSとタッグを組んだライブ「弾きまくりDESTROY」を最後に、H ZETT M名義での活動を一時休止する。

2009年


6月24日、ヒイズミマサユ機として編曲と演奏で参加した椎名林檎のオリジナル・アルバム『三文ゴシップ』がリリースされる。

12月10日、ヒイズミマサユ機名義でキーボード・マガジン2010年1月号よりアーティストコラムの連載開始。

2010年


2月3日、H ZETT M名義の活動を再開、DVD「弾きまくりDESTROY」を発売する。

3月3日、3ピースバンドmimittoがH ZETT M初プロデュース作となるアルバム『3x3=10』をリリース。

3月24日ショパン生誕200周年記念企画のトリビュート・アルバム『JAMMIN’ with CHOPIN ?トリビュート・トゥ・ショパン?』に『ポロネーズ第3番イ長調Op.40-1「軍隊」』の演奏で参加する。

6月10日、パフォーマンス・シンセサイザーKORG PS60とコラボレーション ⇒[1]

10月17日、台湾でストリート・ゲリラライブを決行し、約1000人の現地観客を集める。その模様はUSTREAMニコニコ動画で全世界に生配信された。

11月1日KORGのシンセサイザーPS60とコラボしたアルバム『きらきら☆すたんだーど with PS60』を発売する。

2011年


7月15日、台湾で初のホールワンマンライブを行う。

10月28日フジテレビ系列の音楽番組「僕らの音楽」にてBENIと共演し、福山雅治の「桜坂」を演奏した[9]

12月16日、発売開始わずか1分で完売した初のピアノソロコンサート「ピアノ独演会2012」をUSTREAMで生放送[10] する。

2012年


4月20日、Men's Fashion Week SINGAPORE 2012にステージアクトとして出演。

4月29日、ニコニコ超パーティーに出演。

5月5日、フジテレビ系列の音楽番組「ミュージックフェア」にてMs.OOJAと共演し、「Be...」を演奏した[11]

7月15日、「Keyboard magazine Festival 2012」に出演。小室哲哉nishi-kenとともにシンセサイザー・コンテストの審査員も務めた。

10月26日、フジテレビ系列の音楽番組「僕らの音楽」にて小泉今日子と共演し、「優しい雨」を演奏した[12]


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