獲得メダル
オリンピック
陸上競技
金1920 アントワープ男子10000m
金1920 アントワープ男子クロスカントリー個人
金1920 アントワープ男子クロスカントリー団体
金1924 パリ男子1500m
金1924 パリ男子5000m
金1924 パリ男子クロスカントリー個人
金1924 パリ男子クロスカントリー団体
金1924 パリ男子3000m団体
金1928 アムステルダム男子10000m
銀1920 アントワープ男子5000m
銀1928 アムステルダム男子5000m
銀1928 アムステルダム男子3000m障害
最終更新日 2017年11月20日
パーヴォ・ヨハンネス・ヌルミ(フィンランド語: Paavo Johannes Nurmi、フィンランド語発音: [?p???o ?nurmi] ( 音声ファイル)、1897年6月13日 - 1973年10月2日)は、フィンランドの中距離走と長距離走選手。20世紀初頭に長距離走をほぼ支配したことから、フライング・フィンと呼ばれた。生涯を通して1500メートル競走から20キロメートル競走まで合計22の公式世界記録を作り、夏季オリンピックに3回出場して合計金メダル9個、銀メダル3個を獲得した。その絶頂期には800メートル競走以上の距離で121レース無敗であり、14年間の運動選手生涯においてクロスカントリー競走と10000メートル競走で無敗を維持した。
労働者の家族に生まれたヌルミは12歳に学校を中退して家計を支えた。15歳のころに1912年ストックホルムオリンピックにおけるハンネス・コーレマイネンの勝利がもたらしたオリンピック熱に感銘を受けて厳しいトレーニング計画を開始した[2]。ヌルミは兵役の最中に頭角を現し、1920年アントワープオリンピックの訓練中にフィンランド記録(英語版)を作った。5000メートル競走で銀メダルを獲得した後、10000メートル競走とクロスカントリー競走で金メダルを獲得した。1923年、ヌルミは史上初、1マイル競走と5000メートル競走と10000メートル競走の世界記録を同時に保持する選手であり、2017年現在まで2人目は現れていない。1924年パリオリンピックで再び1500メートルと5000メートルの世界記録を作ったが、この2試合の間は1時間しかなく、ヌルミは2時間内に金メダルを2個獲得した。彼はパリの酷暑にまるで意に介さないように、金メダルを合計5枚獲得した[3]。しかし彼はフィンランド当局に10000メートル競走への参加を拒絶され(代わりにビレ・リトラが参加、金メダルを獲得した)、そのことを苦々しく思っていた。
1925年の長いアメリカツアーの後、ヌルミは怪我とモチベーション低下に悩まされ、ビレ・リトラやエドヴィン・ヴィーデが強敵として立ちはだかるようになった。1928年アムステルダムオリンピックでは10000メートル競走の金メダルを再び獲得したが、5000メートル競走ではリトラに、3000メートル障害ではトイヴォ・ロウコラに敗れて銀メダルとなった。彼は続いてさらに長距離な競走である1時間競走と25マイル競走に挑み、世界記録を打ち立てた。彼は憧れのコーレマイネンと同じように選手生涯の最後をマラソンの金メダルで飾ろうとしたが、国際陸上競技連盟の委員会は1932年ロサンゼルスオリンピックの直前にヌルミがアマチュアかどうかに疑問を呈し、オリンピック開幕式の2日前にヌルミの参加資格を取り消した。これによりスウェーデンとフィンランドの関係(英語版)が緊張、反国際陸連の風潮が巻き起こった。結局、ヌルミをプロ選手とする宣言はついぞ発されなかったが、ヌルミの資格取り消しは1934年に確定、彼はそのまま引退した。
その後、ヌルミはフィンランド走者のコーチになり、冬戦争中にはフィンランドのために募金し、男性用衣料品店(英語版)の経営、建築業者、株式トレーダー(英語版)などの職に就き、やがてフィンランドの大資産家になった。1952年ヘルシンキオリンピックでは最終聖火ランナーを務めた。ヌルミの速さと性格のつかみどころのなさにより、「ファントム・フィン」(Phantom Finn)などのあだ名をつけられた。一方、彼の功績、トレーニング法と走法はそれ以降の中長距離走者に影響を与えた。常にストップウオッチをもって走ったヌルミは均一速度走法と分析的なトレーニング法の発明者とされ、またランニングを世界的にメジャーなスポーツにした人とされている。
幼少期ヌルミの家族、1924年撮影。