選手生涯の中、ヌルミはトレーニング法を秘密としたことで知られている[78]。彼は常に1人で走り、果敢にも彼と並走した人がいるときはペースを上げてその人を疲れさせた[78]。一緒にクラブに行ったりしたフィンランドの選手ハリ・ラルバですら多くは知らなかった[78]。選手生涯が終わった後、ヌルミはフィンランド陸連のコーチになり、1936年ベルリンオリンピックのために走者のトレーニングに当たった[16]。1935年、陸上競技におけるスウェーデンとの交流を回復する議案が40票対38票で通過すると、ヌルミと陸連の役員会全員が連盟から脱退した[79]。しかし、ヌルミは3か月後にコーチとして訓練を再開、フィンランドの長距離走者がベルリンオリンピックで金メダル3個、銀メダル3個、銅メダル1個を獲得する成果を出した[16][80]。1936年、ヌルミはヘルシンキで男性用衣料品店(英語版)を開いた[81]。この店は有名な観光地になり[82]、エミール・ザトペックなどはヌルミに会おうとして店を訪れた[83]。一方、ヌルミは店の奥で建築業という新しい事業に乗り出した[81]。彼は建築業者としてヘルシンキでそれぞれ100室を有するアパートビルを40軒建てた[84]。彼は5年のうちに百万長者となった[82]。選手生涯では最大のライバルだったリトラはやがてヌルミが建てたアパートの一室に(半額で)住んだ[60]。ヌルミは株式市場でも儲けを出し、フィンランドの長者番付の1人となった[85]。
フィンランドとソビエト連邦の間の冬戦争の最中である1940年2月、ヌルミは子分のタイスト・マキ(英語版)[注 4]とともにアメリカに戻ってフィンランドへの支持を集め、フィンランドのために募金した[8]。救援募金は元米大統領ハーバート・フーヴァーによって指揮され、ヌルミとマキはアメリカを横断して逆側の海岸に向かうツアーを行った[86]。フーヴァーは2人を「世界最大のスポーツ強国からの大使」として歓迎した[87]。サンフランシスコ滞在中、ヌルミは教え子の1人で1936年オリンピックで金メダルを獲得したグンナー・ヘッケルトが戦死したとの知らせを受けた[88]、ヌルミは4月下旬に帰国[89]、後に継続戦争で輸送中隊とトレーナーとして働いた[90]。1942年1月に除隊する前、ヌルミは二等軍曹(ユリケルサンッティ(英語版))、続いて一等軍曹(ヴァーペリ(英語版))に昇進した[90]。オリンピック聖火を点火するヌルミ、1952年。
1952年、ヌルミは元フィンランド陸連会長のフィンランド首相ウルホ・ケッコネンに説得されて、1952年ヘルシンキオリンピックでオリンピック聖火をヘルシンキ・オリンピックスタジアムに持ち込む最終聖火ランナーを務めた[85]。観客はヌルミが現れたことに驚き、スポーツ・イラストレイテッドは「彼の名高い大股は群衆にとって間違いようもなく、彼の姿が現れたときはスタジアムに音の波が響き始まり、続いて咆哮に、やがて雷へと大きくなっていった。フィンランドチームは整列していたが、ヌルミの姿を見るや興奮した学生のように競走路の縁に走った」と報じた[91]。聖火台を点火した後、ヌルミは聖火を憧れのコーレマイネンに渡し、コーレマイネンは塔にあるかがり火を点火した[60]。