パーヴォ・ヌルミ
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ガーディアン紙は「彼の予選における成績のうちいくつかはほぼ信じられないものだった」と報じ[23]、ヌルミも怪我に意を介さずにロサンゼルスの選手村で訓練を続けた[8]。ヌルミはハンネス・コーレマイネン第一次世界大戦直後にしたのと同じように、選手生涯をマラソンの金メダルで終わらそうとした[60]
1932年オリンピックと選手生涯の終わり

10000メートル競走から3日前にも満たないとき、ヌルミを暫定で締め出した7人と同じ構成のIAAF特別委員会はヌルミの参加登録を無効とし、ロサンゼルスで競走することを禁じた[61]。IAAF会長ジークフリード・エドストレームは翌日に始まるIAAF総会ではヌルミの参加資格を回復することはできず、ヌルミの一件での政治的影響と裁定の手順を再検討するのみに留まると述べた[61]。AP通信はこれを「国際陸上競技史上最もずるい政治行動」と報じ、オリンピックがまるで「キャストに名高いデンマーク人がないハムレット」のようだと書いた[62]。ヘルシンキでは数千人がこの裁定に抗議した[63]。証拠などの詳細はマスコミには公表されていないが、ヌルミに不利な証拠はドイツの競走主催者が1931年秋にヌルミがドイツで走るとき1レース$250から500を受け取ったとの証言とされている[62]。この証言はエドストレームがカール・リッター・フォン・ハルト(英語版)に手紙を書き、もし彼がヌルミに不利な証拠を提供しない場合、「残念ながらドイツ陸上競技連盟(英語版)に厳しい措置をしなければならないだろう」と脅した後、ハルトより得られた証言である[64]

フィンランド選手は当然ながらヌルミを支持したが、それ以外の選手全員もマラソン競走の前日に連盟でヌルミの参加を受け入れるよう嘆願した[65]。エドストレームの右腕でIAAF事務総長、スウェーデン陸連会長のボー・エケルンドはフィンランド当局に接触、競技外でヌルミがマラソンを走れるよう手配することができるかもしれないと伝えた[65]。しかし、フィンランドは選手がプロでない限り、必ず正式に競走する権利を有するとの立場を崩さなかった[65]。ヌルミは2週間前にアキレス腱を痛めたと診断されたが[66]、ヌルミは2位から5分引き離して勝利できると言った[8]。コーレマイネンやヌルミに刺激を受けてトレーニングを積み、ロサンゼルス大会のマラソン日本代表となった津田晴一郎は「ヌルミと一生に一度、競技生命を賭けた戦いをしたい」と考えており、不出場にショックを受けたと大会から約半世紀後に述べている[67]ロサンゼルスオリンピック時に、マラソン日本代表(左より金恩培権泰夏津田晴一郎)と面会したヌルミ。

IAAF総会はヌルミをプロだと宣言しないまま終了したが、ヌルミを出場停止とした決定は13票対12票で維持された[68]。しかし、票数が近かったため、最終決定は1934年にストックホルムで開かれた総会まで持ち越された[68]。フィンランドはスウェーデン当局がヌルミをアマチュアでないと判断させるために卑怯な手を使ったと非難[69]、スウェーデンとの陸上競技交流を全て中止した[70]。前年の1931年にはすでに競技場上とマスコミでの論争によりフィンランドがフィンランド・スウェーデン国際陸上競技大会(英語版)から脱退しており[71]、ヌルミの資格停止によりフィンランドは1939年まで大会に再参加しなかった[69]

ヌルミはプロになることを拒否[72]、フィンランドでアマチュアとして走り続けた[8]。1933年、彼は3年ぶりに1500メートル競走を走り、1926年以来の最高記録で勝利した[73][74]。1934年8月のIAAF総会ではフィンランドが2つ提案したがいずれも否決された[75]。総会は続いてIAAFのアマチュア規則を違反した選手を資格停止する権利を総会に与える議案を審議した[75]。多くが投票しなかった議決では賛成12票と反対5票によりヌルミが国際アマチュア陸上競技における資格停止処分を受けることが最終的に決定された[75]。3週間すら経たない1934年9月16日、ヌルミはヴィープリで10000メートル競走を勝利した後、引退した[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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