パーヴォ・ヌルミ
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1マイル、5000メートル、10000メートル競走の世界記録を同時に保有したのは2017年時点でヌルミただ1人であった[8]。ヌルミは800メートル走にも挑戦、1923年のフィンランド選手権をフィンランド記録を更新しつつ勝利した[16]。ヌルミは数学を学んで優秀な成績を上げた後[17]、1923年にエンジニアとして卒業、うちに戻って次のオリンピックを準備した[5][9]

ヌルミが1924年春にひざを怪我したことで1924年パリオリンピックの参加が一時危うくなったが、彼は回復して1日2回のトレーニングを再開した[16]。6月19日、ヌルミはオリンピックのスケジュールを試そうとしてヘルシンキのエラインタルハ競技場(英語版)で1500メートルと5000メートルを1時間内に走り、両方とも世界記録を更新した[18]パリのオリンピックで行われた1500メートル競走の決勝戦では最初の800メートルを世界記録更新の時よりも3秒ほど早く走った[18]。ヌルミに挑戦できたのはアメリカのレイ・ワトソン(英語版)だけだったが、最後の一周で諦めたため、ヌルミは速度を少し落としつつヴィリー・シェーラー、ハイラ・ブリストー・ストーラード(英語版)、ダグラス・ロウに勝利[18] 、それでもオリンピック記録を3秒下回って更新した[19]。しかし、5000メートル競走は1500メートル競走から2時間未満で開始、すでに3000メートル障害と10000メートル競走で金メダルを獲得した、同じくフィンランド出身のビレ・リトラが強敵として立ちはだかった[18]。リトラとエドヴィン・ヴィーデはヌルミがきっと疲れていると考え、世界記録のペースで走って彼にエネルギーを使い果せようとした[20][21]。時計ではなく2人の男と競争していたことがわかると、ヌルミはストップウオッチを傍らの草に放り投げた[20]。やがてヴィーデのペースが遅くなり、ヌルミとリトラのみが競争を継続した[18]。最後の直線ではリトラが外側から走ったが、ヌルミもペースを上げてリトラを1メートル後ろに維持して勝利した[18]

一方、クロスカントリー競走では45度という酷暑だったため[22]競走者38人のうち15人がリタイヤ[18]、完走した走者でも8人がストレッチャーで運ばれた[18]。走者の1人が終点のある競技場に着くと小さな円をぐるぐると走り、やがて観覧席に当たって人事不省に陥った[23]。ヴィーデは最初にはリードしたが失神してしまい、病院で死去したとの誤報があったほどだった[24][25]。ヌルミはリトラをほぼ1分半リードして勝利した後も少し疲れたように見えただけだった[18]。フィンランドがクロスカントリー団体のメダルを失ったように見えた中[注 1]ヘイッキ・リーマタイネンが混乱しつつ千鳥足で競技場に入った。しかし、千鳥足であったためほとんど進めていなかった[26]。リーマタイネンの前を走っていた選手が終点まで後50メートルのところで失神したため、リーマタイネンは終点に着いたと勘違いして走りを止め、競走路の外に出ようとした[注 2]。観客たちは叫んだが彼に無視された。観客たちがはらはらする中、彼はようやく自分の置かれた状況が分かり、方向転換して12位でゴール、団体戦の金メダルを確保した[18][26]。競技場にいた人々はこの光景に衝撃を受け、オリンピック当局はそれ以降のオリンピックでクロスカントリー競走を禁止した[27]

翌日の3000メートル団体ではヌルミとリトラが再び1位と2位となり、エリアス・カッツが5位でゴールしたおかげで団体戦の金メダルを獲得した[18]。ヌルミは5種目で金メダルを5個獲得したが、フィンランド当局がスター走者の間で種目を分配、最愛の10000メートル競走を走れなかったためそのことを苦々しく思っていた[18][28]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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