パーヴォ・ヌルミ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

ヌルミはフィンランド銀行総裁リスト・リュティを財務顧問として、株式トレーダー(英語版)の仕事を始めた[9]。同1926年にはベルリンでヴィーデの3000メートル競走世界記録を破り、ストックホルムで記録を再び更新した[29]。ストックホルムではニルス・エクロフ(英語版)がヴィーデを助けるためにヌルミのペースを下げさせようとしており[37]、ヌルミは激怒して未来永劫エクロフと競走しないと宣言した[38]。1926年10月には1500メートル競走でヴァイマル共和国のオットー・ペルツァー(英語版)に敗れ、1500メートル競走世界記録保持者の座も奪われた[39]。ヌルミが1000メートル以上の競走で敗れるのは5年以上、133レースぶりだった[33]。1927年、フィンランド当局はヌルミがフィンランド・スウェーデン国際陸上競技大会(英語版)でエクロフとの競走を拒否したとして国際レースでの競走を禁止、ウィーンでのペルツァーとの再戦を取り消した[40]。ヌルミはそのまま1927年のシーズンを終わらせ、11月末まで1928年アムステルダムオリンピックへの出場を辞退すると脅した[41]。1928年のオリンピック予選では1500メートル競走で同じフィンランドのハリ・ラルバエイノ・プリエに敗れて3位だった(ラルバとプリエは後にそれぞれ金メダルと銅メダルを獲得した)ため、ヌルミはさらに長距離な競走に集中した[42]。彼は障害走にも参加したが、それまで障害走には2回しか参加しておらず[42]、しかも前回は6年前のイギリス陸上競技選手権で行われた2マイル障害走での勝利だった[43]

1928年アムステルダムオリンピックでは3種目に参加した。10000メートル競走ずっとリトラの後ろで走り、最後の直線で加速してリトラを越えて勝利した[44]。5000メートル競走の決勝戦直前、ヌルミは3000メートル障害の予選で[44]水たまりからジャンプしたときに転倒してしまい腰と足を捻挫した[44]。フランス選手リュシアン・デュケーヌ(英語版)が止まってヌルミに手を貸して立ち上がらせた。ヌルミはお礼としてデュケーヌと並走、ペースを上げさせて予選の勝利を渡したが、デュケーヌに断られた[44]。その後の5000メートル競走では10000メートル競走のときと同じ手を使おうとしたが、今度はリトラが加速したためヌルミは追い付けなかった[44]。以前よりも疲れたように見えたヌルミはヴィーデを寄せ付けずに銀メダルを獲得するのみに留まった[44]。しかし3000メートル障害の決勝戦が翌日に控えたため、ヌルミは休息や怪我を治療する時間がなかった[44]。ヌルミが障害物の跳躍に苦しんだためフィンランド出身で障害走を専門としたトイヴォ・ロウコラが距離差を広げた[44]。ヌルミは最後の一周でスパートをかけて他を引き離し、ロウコラとは9秒差でゴール、銀メダルを獲得した。ロウコラは世界記録を更新したが、ヌルミの記録も当時の世界記録より良い成績だった[44]。リトラはリタイヤしたが、オーヴェ・アンデルセン(英語版)が銅メダルを獲得したことでフィンランドは全てのメダルを獲得する圧勝となった[44]
長距離走を転戦ストップウオッチを見るヌルミ、1928年。

ヌルミはスウェーデンの新聞に「これは私が競走路上にいる最後のシーズンです。私は歳を取った。15年間走ったのでもう十分走りました。」と述べたが[8]、彼は競走を続け、より長距離な競走に着目した。10月、彼はベルリンで15キロメートル競走、10マイル競走、1時間競走の世界記録を打ち立てた[15]。ヌルミの1時間競走の世界記録は17年間破られず、1945年にようやくヴィルヨ・ヘイノ(英語版)が記録を129メートル伸ばした[45]。1929年1月、ヌルミは2度目の米国ツアーをブルックリンから開始した[46]。彼は室内1マイル競走であるワナメイカー・マイル(英語版)で自身の1マイル競走におけるはじめての敗北を喫し、アメリカのレイ・コンジャー(英語版)に敗れて2着に終わった[47][48]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:315 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef