1952年、ヌルミは元フィンランド陸連会長のフィンランド首相ウルホ・ケッコネンに説得されて、1952年ヘルシンキオリンピックでオリンピック聖火をヘルシンキ・オリンピックスタジアムに持ち込む最終聖火ランナーを務めた[85]。観客はヌルミが現れたことに驚き、スポーツ・イラストレイテッドは「彼の名高い大股は群衆にとって間違いようもなく、彼の姿が現れたときはスタジアムに音の波が響き始まり、続いて咆哮に、やがて雷へと大きくなっていった。フィンランドチームは整列していたが、ヌルミの姿を見るや興奮した学生のように競走路の縁に走った」と報じた[91]。聖火台を点火した後、ヌルミは聖火を憧れのコーレマイネンに渡し、コーレマイネンは塔にあるかがり火を点火した[60]。ヌルミは取り消された1940年東京オリンピックではフィンランドの金メダル獲得者50人を率いる予定だった[92]。
ヌルミは運動選手として名声を得すぎ、商人として名声を得なさすぎたと考えたが[9]、彼の競争に対する興味が薄れることはなかった[93]。彼は数度競走路に戻って走ったほどだった。1946年、彼はギリシャ内戦の被害者のために募金して、昔からのライバルであるエドヴィン・ヴィーデとともにストックホルムで競走した[94]。ヌルミの最後の競走はニューヨークアスレチッククラブの招待で1966年2月18日にマディソン・スクエア・ガーデンで行われた競走である[95]。1962年、ヌルミは福祉国家が長距離競走で不利であると予想、「国の生活水準が高いほど、努力と困難が必要な種目における結果が悪くなる。私は新世代に警告したい:『この快適な生活で怠惰になるな。新しい交通手段に運動の本能を消滅されるな。短距離でも自動車で行く若者が多すぎる』」と述べた[96]。1966年、ヌルミはスポーツクラブのゲスト300人を前に演説、フィンランドの長距離走の状態を批判して、スポーツ官僚をただの売名家や旅行者だとしかり、運動選手に何かを成し遂げるために全てをなげうつよう求めた[97]。その後、ヌルミは1970年代にフィンランドの陸上競技が回復の兆しを見せたのを見届けることができた。この年、ラッセ・ビレンとペッカ・ヴァサラ(英語版)が1972年ミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得した[93]。彼はビレンの走姿を褒め、ヴァサラにはキプチョゲ・ケイノに注目するよう助言した[9]。
1964年に米大統領リンドン・ジョンソンの招待を受けてホワイトハウスを再び訪れたものの[98]、ヌルミは1960年代末にマスコミのインタビューを受けるようになるまでかなり隠遁した生活を送った[99]。1967年、ヌルミは70歳の誕生日にフィンランド国営放送のインタビューを受けることに同意したが、それは大統領ウルホ・ケッコネンがインタビュアーを務めることを知ってからのことだった[100]。