パーヴォ・ヌルミ
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フィンランドがクロスカントリー団体のメダルを失ったように見えた中[注 1]ヘイッキ・リーマタイネンが混乱しつつ千鳥足で競技場に入った。しかし、千鳥足であったためほとんど進めていなかった[26]。リーマタイネンの前を走っていた選手が終点まで後50メートルのところで失神したため、リーマタイネンは終点に着いたと勘違いして走りを止め、競走路の外に出ようとした[注 2]。観客たちは叫んだが彼に無視された。観客たちがはらはらする中、彼はようやく自分の置かれた状況が分かり、方向転換して12位でゴール、団体戦の金メダルを確保した[18][26]。競技場にいた人々はこの光景に衝撃を受け、オリンピック当局はそれ以降のオリンピックでクロスカントリー競走を禁止した[27]

翌日の3000メートル団体ではヌルミとリトラが再び1位と2位となり、エリアス・カッツが5位でゴールしたおかげで団体戦の金メダルを獲得した[18]。ヌルミは5種目で金メダルを5個獲得したが、フィンランド当局がスター走者の間で種目を分配、最愛の10000メートル競走を走れなかったためそのことを苦々しく思っていた[18][28]。そして、フィンランドに戻ると、ヌルミは10000メートル世界記録を更新、以降ほぼ13年間破られなかった[28]。彼は今や1500メートル、1マイル、3000メートル、5000メートル、10000メートルの世界記録を同時に保持した[29]
米国ツアーと1928年オリンピック米国ツアーの最中のヌルミ(右)とカルビン・クーリッジ大統領、1925年2月21日撮影。左はジョーイ・レイ(英語版)。

1925年初、ヌルミは広く宣伝された米国ツアーを開始した。彼は5か月間で競技に55回参加(うち45回は屋内競技)した。最初となるのが1月6日にニューヨーク市マディソン・スクエア・ガーデンで行われた、満員の観客が見守る中での競技であった[30]。彼の米国デビューはヘルシンキとパリでの出来事の再現であった[30]。彼は5000メートル競走でアメリカのジョーイ・レイ(英語版)とロイド・ハーン(英語版)を破り、世界記録を再度更新した[30]。ヌルミは正規の競技で屋内競走の世界記録を10種目更新、稀にしか行われない距離の競走の記録も更新した[30]。彼が参加した競技のうち、51回は勝利、1回はリタイヤ、3回は敗北した。敗北した3回のうち2回はハンディキャップ付き[注 3]であり、残りの1回は最後の競技でヤンキー・スタジアムで行われた半マイル競走だった。この競技ではアメリカ選手アラン・ヘルフリッチがヌルミを下し、ヌルミは2位となっている[30][32]。ヘルフリッチの勝利はヌルミの4年間通算121連勝記録(800メートル以上の個人競走)を終結した[33]。ヌルミは何よりも敗北を嫌ったが[34]このときは真っ先にヘルフリッチに祝いの言葉を述べた[32]。このツアーによりヌルミはアメリカで大人気になり、彼は大統領カルビン・クーリッジホワイトハウスで面会することに同意した[35]。ヌルミはその後、競技しすぎて燃え尽きることを恐れてアメリカを去った[36]

ヌルミは競走へのモチベーションを維持するのに苦心した。リウマチアキレス腱の問題にも影響された[9]。彼は1926年に機械製図家の職を辞め、ビジネスを熱心に勉強した[9]。ヌルミはフィンランド銀行総裁リスト・リュティを財務顧問として、株式トレーダー(英語版)の仕事を始めた[9]。同1926年にはベルリンでヴィーデの3000メートル競走世界記録を破り、ストックホルムで記録を再び更新した[29]。ストックホルムではニルス・エクロフ(英語版)がヴィーデを助けるためにヌルミのペースを下げさせようとしており[37]、ヌルミは激怒して未来永劫エクロフと競走しないと宣言した[38]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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