パーンディヤ朝
[Wikipedia|▼Menu]
1世紀の古代ギリシャの歴史家ダマスカスのニコラウスは、初代皇帝アウグストゥスの治世である西暦13年にダマスカスで、インドの王「パーンデォン」若しくは「ポールス」によって遣わされた使者に会っている。
南インド諸王朝との抗争

4世紀から6世紀のパーンディヤ朝の様子は審らかでないが、北方のマイソール地方から来たというカラブラ族の支配を受けたために独自の記録がないためである。パーンディヤ朝の刻文史料には、カラブラ族は仏教ジャイナ教を保護してパーンディヤ王がバラモンに与えた村落を奪った悪しき支配者として記録され、そのような支配者からカドゥンゴーン(位560? - 590?, 位590? - 620?)が独立を果たしたことが記録されている。カドゥンゴーン王の後継者たちは、西海岸のケララ地方にまで勢力を拡大したが、7世紀末のアリケーシャリ・マーラヴァルマン(位640? - 674?, 位670?-700?)の時代頃からパッラヴァ朝との抗争が激化した。マーラヴァルマン・ラージャシンハ(位730 - 65)のとき、パッラヴァ朝とバーダーミのチャールキヤ朝の連合軍を破り、底力をしめした。ジャリタ・バラーンタカ・ネドゥンジェリアン(ヴァラグナ1世)(位765 - 790?, 815?)は、西方のケララ地方のみならず北東のタンジョール地方まで勢力を及ぼし、パッラヴァ朝を脅かした。

次のシュリーマラ・シュリーヴァラバ(位815?,830?- 862)の時代にはセイロンを侵略し、その首都を陥落させる勢いであったが、パッラヴァ朝ラーシュトラクータ朝の連合軍及びセイロン王セーナ2世に挟み撃ちにされて、首都マドゥライは陥落させられ、シュリーヴァラバ王は戦死した。その間チョーラ家のヴィジャヤラーヤ(位846 - 871)が、パッラヴァ朝とパーンディヤ朝が抗争を繰り返す過程で勢力を拡大し、パッラヴァ朝の封臣ムッタライヤル家からタンジャヴールを奪って本拠とした。またヴィジャヤラーヤによって、パーンディヤ朝のヴァラグナ・ヴァルマン2世(位862 - 880)はシュリー・プランビアムで大敗し、ヴィジャヤラーヤの孫のアーディティヤ1世(位871 - 907)は、パッラヴァ朝の内乱に乗じて主君のであるはずのパッラヴァ家のアパラージタを殺害し、その領地を併合した。ヴァラグナ・ヴァルマン2世の孫マーラヴァルマン・ラージャシンハ2世(位900?,905? - 920)もバラーンタカ=チョーラ1世(位907 - 955)に本拠マドゥライを陥落させられ、たよりのセイロンの援軍も破られその版図は併合された。パーンディヤ王は、セイロンに逃れ、セイロンとチョーラ朝はこのことを契機に反目するようになった。マーラヴァルマン・ラージャシンハ2世の亡命により一旦パーンディヤ朝は、滅亡した。チョーラ朝は、チョーラ=パーンディヤと称する太守をマドゥライに置いた。パーンディヤ家はセイロンでの長く苦しい亡命生活を強いられることになる。
後期パーンディヤ朝の栄光と滅亡終末期のチョーラ朝とホイサラ朝、パーンディヤ朝

しかし、12世紀末になってチョーラ朝がすっかり弱体化してくると、ジャターヴァルマン・クラーシェカラ(位1190 - 1216)がパーンディヤ朝を再建する。これ以降を後期パーンディヤ朝と呼ぶ。次のマーラヴァルマン・スンダラ・パーンディヤ1世(位1216 - 1238)は、チョーラ朝を打ち破って心臓部のタンジャブールまで侵攻した。パーンディヤ朝の攻勢に苦しむチョーラ朝は、北西隣のカルナータカ州中南部を支配していたホイサラ朝に救援を求めた。もとよりカーヴェリー川流域の支配をねらうホイサラ朝は、チョーラ朝と同盟してパーンディヤ朝と戦うことになるが、ジャターヴァルマン・スンダラ・パーンディヤ1世(位1251 - 1268)は、ホイサラ・チョーラ連合軍を打ち破って、コロマンデル海岸をネロール地方まで北上し、チョーラ朝を首の皮一枚までのところまで追い詰めた。ジャターヴァルマン・スンダラ・パーンディヤ1世は、「寺院を黄金で覆った王」という別名を持ち、海外交易の振興によって経済的にも繁栄した。その一例として、『元史』巻210にも、「馬八兒(マバル)の国王は算弾と呼ばれ」との記録も見られ、中国との盛んな交易を物語っている。継いだマーラヴァルマン・クラーシェカラ1世(位1268 - 1309)は、ついにチョーラ朝に止めを刺してこれを滅ぼし、その版図を併呑した。パーンディヤ朝の繁栄は続き、マルコ・ポーロもその繁栄ぶりについて記述している。

しかし、晩年になると、息子たちヴィーラ・パーンディヤ(王位僭称期間1309 - 1345)とスンダラ・パーンディヤ(王位僭称期間1309 - 1327)による王位継承争いが起こり、クラーシェカラ1世自身もスンダラ・パーンディヤによって殺害された。パーンディヤ朝は分裂状態に陥った。時同じくして北インドには、強力なハルジー朝が興り、スンダラ・パーンディヤは、ハルジー朝に援軍を求めた。ハルジー朝のマリク・カーフール南インドへ遠征軍を率い、ヤーダヴァ朝カーカティヤ朝ホイサラ朝の君主を次々に屈伏させてデリーへ連行し、パーンディヤ朝は、1310年、首都マドゥライに侵攻を受けた。ハルジー朝の軍勢が引き返すと、今度はホイサラ朝とカーカティヤ朝の草刈場のようになり、カーカティヤ朝には、カーヴェリ川下流域のティルチラパッリまで進入を許し、チョーラ朝の故地の大半を奪われるような状況にまで陥った。もはやパーンディヤ朝は王朝の実態を留めていなかった。14世紀中葉、ヴィジャヤナガル朝が興るとパーンディヤ朝の版図のほとんどは吸収され、マドゥライにはイスラム王国が建国された。ただし、パーンディヤ家自身は17世紀までティルチラパッリ周辺の小領主として生き残ったようである。
歴代君主
4 - 6世紀のパーンディヤ朝歴代君主

カドゥンゴーン(Kadungon)(位560? - 590?, 位590? - 620?)

マーラヴァルマン・アヴァニューシュラーマニ(Maravarman Avani Culamani)(位590? - 620?, 位620? - 645?)

シェーンダーン(Cezhiyan Cendan)(位620? - 640?、位645? - 670?)

アリケーシャリ・マーラヴァルマン(Arikesari Maravarman Nindraseer Nedumaaran)(位640? - 674?, 位670?-700?)

コーチャダイヤン(Kochadaiyan Ranadhiran)(位675? - 730, 位700? - 730)

アリケーサリ・パランクサ・マーラヴァルマン・ラージャシンハ1世(Arikesari Parankusa Maravarman Rajasinga)(位730 - 765)

ジャティラ・パラーンタカ・ネドゥンジャダイアン(Jatila Parantaka Nedunjadaiyan)(位765 - 790?, 815?)

ラサシンガン2世(Rasasingan II)(位790? - 800?)不明

ヴァラグナン1世(Varagunan I)(位800? - 830?)不明

シュリーマラ・シュリーヴァラヴァ(Sirmara Srivallabha)(位815?, 830? - 862):ジャティラ・パラーンタカ・ネドゥンジャダイアンの子

ヴァラグナヴァルマン2世(Varagunavarman II)(位862? - 880?)

パラーンタカ・ヴィーラーナーラーヤナ(Parantaka Viranarayana)(位862?,880? - 900?, 905?):ヴァラグナヴァルマン2世の弟

マーラヴァルマン・ラージャシンハ2世(Rajasimha II)(位900?, 905? - 920)

後期パーンディヤ朝歴代君主

ジャターヴァルマン・クラーシェカラ(Jatavarman Kulasekara)(位1190 - 1216)

マーラヴァルマン・スンダラ・パーンディヤ1世(Maravarman Sundara Pandya)(位1216 - 1238)

スンダラヴァルマン・クラーシェカラ2世(Sundaravaramban Kulasekaran II)(位1238 - 1240)

マーラヴァルマン・スンダラ・パーンディヤ2世(Maravaramban Sundara Pandiyan II)(位1241 - 1251)

ジャターヴァルマン・スンダラ・パーンディヤ1世(Jatavarman Sundara Pandyan)(位1251 - 1268)

マーラヴァルマン・クラーシェカラ1世(Maravaramban Kulasekara Pandyan I)(位1268 - 1309, 1311)

スンダラ・パーンディヤ(Sundara Pandyan IV)(王位僭称1309 - 1327)

ヴィーラ・パーンディヤ(Vira Pandyan IV)(王位僭称1309 - 1345)

参考文献

貝塚茂樹(編)、鈴木駿(編)、宮崎市定(編)、ほか 編『アジア歴史事典』 7(ト - ハ)、平凡社、1961年。 

井上幸治(編)、江上波夫(編)、ほか 編『世界歴史事典』 7(フラ - メト)(新装復刊)、平凡社、1990年(原著1956年)。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4-582-10308-1。 










インド王朝
北インド

十六大国

マガダ国

シシュナーガ朝

ナンダ朝

マウリヤ朝

シュンガ朝

カーンヴァ朝


インド・グリーク朝

インド・スキタイ王国西クシャトラパなどの諸王国)

インド・パルティア王国


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:37 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef