パーミャチ・アゾーヴァ_(装甲巡洋艦)
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^ “ ⇒Учебные суда (16.07.1915 - 30.04.1918)”. 2010年11月28日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p “ ⇒Крейсер первого ранга. Тип ≪Память Азова≫ (1 единица)”. 2010年11月30日閲覧。
^ a b “ ⇒Броненосный фрегат ≪Память Азова≫”. 2010年11月30日閲覧。
上記以外は、 ⇒“Как быпBустроен полуброненосный фрегат "Память Азова": Артиллерия”. Кратк?я св?д?н?я о фрегат? ?Память Азова” (1890). ⇒http://wunderwaffe.narod.ru/Magazine/BKM/Pamat_Azova/13.htm  による。
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パーミャチ・アゾーヴァ[2]ロシア語: ≪Па?мять Азо?ва≫[注 2])は、ロシア帝国が建造し保有した装甲巡洋艦である。日本では大津事件の際のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(のちの皇帝ニコライ2世)のお召し艦として知られ、ソビエト連邦(以下、ソ連)ではバルト艦隊最初の「革命艦」として知られた[3]

ロシア帝国海軍での配備当初の正式な分類(ロシア語版)はフリゲート(фрегатъ)[4]または装甲フリゲート(броненосный фрегатъ)[5]であったが、同海軍でフリゲートとして配備された艦としてはこれが最後であった[6]。その後、1892年2月1日[暦 7]付けで 1 等巡洋艦(крейсеръ I ранга)[5]1907年9月27日[暦 8]付けで練習船(учебное судно)[5][7]に類別を変更された。その後、ロシア共和国海軍、さらに労農赤色海軍へ所有者が変わった。1919年5月8日付けで浮き基地(ロシア語版)(плавучая база)[8]に類別を変更された。

艦名は、ロシア語で「アゾフの記憶」という意味であるが、この名はギリシャ独立戦争の際、1827年10月8日[暦 9]に発生したナヴァリノの海戦で英雄的に戦ったことが賞賛された戦列艦「アゾフ(ロシア語版)」に敬意を表したものである[9][注 3]。関係者のあいだではもっぱら「アゾフ」(≪Азо?въ≫)と通称された[10][11]。伝統に則り、戦列艦「アゾフ」から代々受け継いだゲオルギイの旗(ロシア語版)を受領し、舳先にはゲオルギイ十字(ロシア語版)を取り付けていた。ゲオルギイ十字を持つ、ロシア史上初の蒸気装甲軍艦である[12]

帝室ヨット(英語版)ではなかったが航洋性(ロシア語版)ならびに船内設備が優れていたので、前述の皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチのお召し艦として使用された。これに関連し、乗員は近衛艦隊乗員班(ロシア語版)に列せられている。

後世、「パーミャチ・アゾーヴァ」の名はふたつの事件で知られている。ひとつは、1906年にこの艦上で発生した水兵らを中心とした叛乱事件である。この事件により艦は「バルト海の『ポチョムキン』」(Балти?йский ≪Потёмкин≫)と渾名され、ソ連時代に「革命艦」として広く知られるようになった。もうひとつは、この艦の最期である。当時すでに第一線を退いて港に繋留される浮き基地となっていた「パーミャチ・アゾーヴァ」は、ロシア内戦中の1919年8月19日イギリス海軍魚雷艇による奇襲攻撃を受け着底、魚雷艇によって犠牲となった当時としては珍しい艦として歴史に名を留めた。
概要
大洋巡洋艦

クリミア戦争での敗北後、海軍の再建と外洋海軍の建設を目指していたロシア帝国海軍は19世紀後半、大洋における良好な巡洋性能の確保を最大の目的とした艦船、すなわち「大洋巡洋艦」(たいようじゅんようかん; ≪океанск?й крейсеръ≫)の整備を進めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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