パンアメリカン航空
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1943年ベネズエラのアベンサ航空の開業に参画。

1946年: 新規にホテル部門を「InterContinental Hotel」(現インターコンチネンタルホテルズグループ)と命名して設立。

1949年ミドル・イースト航空に投資するとともに経営に参画。

1950年: アメリカ航空の国際線部門であるアメリカン・オーバーシーズ航空を買収。

1950年: 「Pan American World Airways」に社名変更。

1958年: アメリカ初のジェット旅客機ボーイング707ニューヨーク - パリ線に就航。

1959年: KRT→TBS系列で放映された『兼高かおる世界の旅』の協賛となる。

1961年大相撲の賛助になり、パンアメリカン航空賞の授与が始まる。「ヒョー、ショー、ジョォー」で始まるデビッド・ジョーンズ極東地区広報担当支配人の独特の口調が有名に。

1963年マンハッタン島のパンナムビル(現在のメットライフビル)竣工。

1970年ボーイング747「ジャンボジェット」超大型ジェット旅客機をニューヨーク - ロンドン線に就航。

1976年: ボーイング747SPにより東京 - ニューヨーク直行便を開始。

1977年スペインカナリア諸島KLM機とテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故発生。史上最悪の死亡者を出した航空機事故となる。

1980年: ナショナル航空を吸収合併し国内線を強化。

1983年国際航空運送協会の統計による旅客・貨物輸送実績世界一の座を、日本フラッグ・キャリア日本航空に明け渡す。

1985年: 太平洋路線と機材、従業員などをユナイテッド航空へ売却。これにより日本路線の自社運航からも撤退。

1988年: 英国・スコットランド上空でパンアメリカン航空103便爆破事件が発生。

1990年ロンドン・ヒースロー空港のハブと以遠権ユナイテッド航空へ売却。

1990年: 西ドイツと東ドイツ間の路線運航権をルフトハンザドイツ航空に売却。

1991年1月8日連邦倒産法の適用を申請。その後フランクフルト国際空港のハブとヨーロッパ路線、ニューヨークとボストンおよびワシントンD.C.との間のシャトル便、「パンナム・ワールドポート」をデルタ航空へ売却。中南米路線をユナイテッド航空へ譲渡。

1991年: 12月4日破産し、運航を停止。その後破産管財人によりマイアミ国際空港のターミナルをアメリカン航空とユナイテッド航空へ譲渡。

歴史
創設期フォッカー F.1(1928年)

1927年3月14日にヘンリー・アーノルドとカール・A・スパッツ、ジョン・H・ジョーエットの3人により、アメリカとキューバの間での航空郵便業務を行うことを目的に、フロリダ州マイアミを拠点に創設された。

創設後にアメリカとキューバの間の航空郵便業務をアメリカ政府より受託し、同年10月にはフォッカー F.7で、キーウェストハバナ間に就航した[4]

その後W・アヴェレル・ハリマンコーネリアス・ヴァンダービルト・ホイットニーなどとの関係も深いなど、政界や経済界との関係が深かった実業家で、アビエーション・コーポレーション・オブ・アメリカズの大株主であるファン・トリップの指揮の元、1928年6月23日には同社と合併するなど経営基盤を盤石なものとした。

その後は創設の目的であるキューバ路線や、アメリカの植民地であるプエルトリコ路線やパナマをはじめとするカリブ海周辺の路線の開設を皮切りに、東海岸を中心とした国内線にも参入し、フォッカー F.10やフォード トライモータなどの最新鋭機を導入し、その路線網を着実に拡大して行った。
南アメリカ線参入パンアメリカン・グレース・エアウェイズのフォード トライモータマイアミのディナー・キーにあった専用ターミナルとシコルスキーS-40

1920年代後半から1930年代にかけては、チャールズ・リンドバーグを顧問に迎え、フロリダ州からのカリブ海路線以外にも当時アメリカがその影響力を増していた中南米路線を積極的に拡大するとともに、アルゼンチンチリメキシコブラジルなどの南アメリカへの長距離国際線の路線権を獲得する。

さらに、キューバのクバーナ航空や、ブラジルのパンエア、メキシコのメヒカーナ航空など、それらの国々の航空会社を次々と買収しその路線網を拡充していく[5]

また、1929年には当時アメリカとカリブ海沿岸諸国、南アメリカ諸国を結ぶ客船ルートを多数運航していたアメリカのグレース・シッピングと合弁会社のパンアメリカン・グレース・エアウェイズ(「パナグラ(Panagra)」として知られた)を設立し、客船との接続ルートを運航した。なおパナグラは1968年まで経営された。

なお陸上機による路線網もあったものの、当時は短距離から中長距離路線に至るまで飛行艇による運航が中心であり、マイアミ港に設けられた専用空港を中心に路線網を構築していた。
太平洋横断路線開設霞ヶ浦に到着したリンドバーグ夫妻シコルスキーS-42飛行艇(1934年)グアム島に停泊するマーチンM-130飛行艇

1930年には、アラスカ経由で日本中華民国へと向かう太平洋横断路線の開設をもくろみ、北太平洋航路調査のために顧問のリンドバーグ夫妻にアラスカ経由で日本に向けての調査飛行を行わせる。

リンドバーグ夫妻は翌1931年に、ニューヨークからカナダ、アラスカ、日本を経て中華民国までロッキード水上機シリウス号で飛行した。途中8月23日には国後島8月24日には根室市、26日に霞ヶ浦、その後大阪福岡を経て、中華民国の南京漢口まで飛行した。妻のアン・モローの著書『翼よ、北に』にその記録が記された。

しかし、アラスカから日本に至る航路の途中で、ソビエト連邦領であるカムチャツカ半島とその周辺の島嶼へのテクニカルランディングが同国政府から許可されないと判ると、一転してサンフランシスコからハワイミッドウェイ島、アメリカの植民地フィリピンなどの、アメリカの領土内もしくは統治下の地域を経由して、同じくアメリカ租界のある上海へ向かう路線の開設を検討する。


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