ところで、これらの給付の恩寵を実際に受けたのは広大な帝国人民のなかで数割にも満たないローマ市民権保有者の、なかでも都市に住んでいるさらに一部であった。共和政の中期、マリウスの軍制改革までは男性のローマ市民はすべて従軍の義務があり、故郷でパトロネジの庇護を受けるのは男手を奪われ(あるいは生命を奪われ)困窮しがちの中小地主階層であり、彼らは軍団兵の家族であった。そして実際に配給されるのは焼かれたパンではなく穀物(小麦粉)であり、当然ながら食べるためには調理器具や燃料が必要であり、帝国化してのち述べられるようになった「働く事を放棄する」というのは大げさな表現である。
統治者側の視点からみれば、ローマにとって穀物給付は大貴族や皇帝が気まぐれに恩寵的に与え始めたようなものではなく、前123年ガイウス・グラックスによって提案された穀物法(低価格で全市民あるいは貧窮市民への売却)提案に起源をもち前58年にクロディウス護民官により初めて実施されたローマにとって伝統的な意味合いをもった政策でもあった。また当初はポエニ戦役の勝利により急速に拡大したローマ世界において支配階層となっていった大貴族・騎士階層と、ローマ近在の没落しつつあった中小地主階層との格差問題の解消という緊張関係のなかで提案された法案であった。もっとも、実際に穀物給付が政策としておこなわれはじめた共和政末期には、すでにローマ軍政は給付付きの志願制に変更されていたため、この穀物給付政策は軍団兵家族の救恤といった当初の目的から没落市民への恩給へと、また護民官や皇帝の権威を鼓吹する手段へと変質してゆく。
この「パンとサーカス」はローマ帝国の東西分割後も存続した東ローマ帝国ではしばらく維持されていたが、7世紀のサーサーン朝やイスラム帝国の侵攻によってエジプト・シリアといった穀倉地帯を失うと穀物の供給を維持できなくなり、終焉した。ただし、その後も皇帝が即位時に市民に贈り物を配ったり、年に何回か戦車競争を行うなどローマ皇帝の正統性を示す儀式としては続けられており、帝国末期で国庫が窮乏していた14世紀末の皇帝マヌエル2世の戴冠式の時にも、銀貨が市民に配られたことが記録されている。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ラテン語: circus(キルクス)
^ ラテン語: amphitheatrum(アンフィテアトルム)
^ circenses は、主格と対格が同じ形である。
^ proletarii ; "proletarius"の複数形。"proles(子孫) + -arius"で、原義は「子孫に関するもの」であり、財産がなく、税金と兵役を免除され、子供を持つことによってのみ共和国に貢献するとした市民の意。
出典^ 安井萠「中学校歴史教科書におけるギリシア・ローマ史」『岩手大学文化論叢』第11巻、岩手大学教育学部社会科教育科、2022年3月17日、35頁、doi:10.15113/00015628“本書には重装歩兵、オリンポス12神、デモクラティア、「パンと見世物」、ユリウス暦などといった他にはない用語が現れるし、”
^ (ラテン語) Saturae (Iuvenalis, Bucheler)/Liber IV/Satura X#80, ウィキソースより閲覧。 ラテン語原文
(英語) Juvenal and Persius/The Satires of Juvenal/Satire 10#199, ウィキソースより閲覧。 英語訳部分
関連項目
大淫婦バビロン
ニカの乱
3S政策
娯楽
強欲
外部リンク
⇒ユウェナリス『風刺詩集』 - The Latin Library(ラテン語)
⇒ユウェナリス『風刺詩集』 - フォーダム大学(英語)
典拠管理データベース: 国立図書館
ドイツ