パルプ_(バンド)
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メンバー

ジャーヴィス・コッカー (Jarvis Cocker) : ボーカルギター

キャンディダ・ドイル (Candida Doyle) : キーボード

ニック・バンクス (Nick Banks) : ドラム

スティーヴ・マッキー (Steve Mackey) : ベース、プログラミング

マーク・ウェバー (Mark Webber) : ギター、キーボード

ラッセル・シニア (Russell Senior) : ギター、ヴァイオリン

以上のメンバーは、アルバム『Different Class』発表時のメンバーであり、バンドに長期間在籍したメンバーである。再結成した際も、主に上記のメンバーで活動を行っている。そのほか以前在籍したことのあるメンバーは約20人ほどに上る。オリジナルメンバーはジャーヴィスのみである。
来歴
デビュー・下積み時代

1978年に15歳のジャービス・コッカーが結成した「アラバカス・パルプ」を前身として、1983年にインディーズのレッド・ライノ・レコードから1stアルバム『It』でデビューする。4年後の1987年にはファイア・レコードから 2ndアルバム『フリークス』をリリースするも大した話題にはならなかった。同年、ジャーヴィス自身の大学進学のためロンドンへ拠点を移すことになり、学業と平行しながらのバンド活動となる。当時はメンバーの入れ替わりが多く、1stアルバム作成時のメンバーで残っているのはジャービスだけである。2ndアルバムからギターのラッセルとキーボードのキャンディダが加入している。

ロンドンに移った後、当時ブームだったアシッド・ハウスの影響を受けた彼らは、3rdアルバム『セパレーションズ』を1989年に製作する。このアルバムからベースのスティーブとドラムのニックが加入している。しかしレーベルとの対立からリリースをさせてもらえず、ジャーヴィスも当分学業に専念し、しばらく活動は行われなかった。(この時期、ジャーヴィスは学校で、裕福なギリシャ人の令嬢と出会う。彼女との邂逅が後の「コモン・ピープル」の歌詞となった。)
栄光の到来

1991年、ファイア・レコードからのシングル「マイ・レジェンダリー・ガールフレンド」がNMEに注目され、1992年、お蔵入りになっていた『セパレーションズ』のリリースにこぎ着ける。

1993年、ついに念願のメジャーレーベルとの契約を交わすと、翌年に発売したメジャーデビューアルバム『彼のモノ?彼女のモノ(His 'n' Hers)'』が全英Top 10入りを果たす。プロモーションの過程で数多くのテレビ・ラジオ番組に出演すると、個性的なジャーヴィスの風貌やフロントマンとしての存在感が大きく取り上げられるようになった。ここに至って、ついにバンドは長きに渡った下積みを終え、メジャーな存在として花開いた。

1995年、ツアー・マネージャーだったマーク・ウェバーを正式メンバーに加えて、アルバム『コモン・ピープル(Different Class)』を発表。このアルバムは全英No.1に輝き、10日間でプラチナム・セールスを達成、英国内だけで120万枚のセールスを記録した。「コモン・ピープル」、「ディスコ2000」、「サムシング・チェンジド」と、シングルは軒並みヒットを続け、バンドは爆発的な成功を収めた。と同時にブラーオアシスらとともにブリットポップの一大ムーブメントの「顔」として社会現象を巻き起こす存在となった。さらに怪我で出場を取りやめたストーン・ローゼズの代役としてグラストンベリー・フェスティバルのヘッドライナーを務めた。

翌年のブリット・アウォーズでは4部門にノミネートされたが、マイケル・ジャクソンのパフォーマンス中に、彼に対する抗議のためステージに乱入する事件を起こす。(詳しくはジャーヴィス・コッカーの項目を参照のこと)

1997年、映画『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』の主題歌候補として「トゥモロー・ネバー・ライズ」を作詞・作曲するが、最終選考でシェリル・クロウに敗れた[2]
活動休止

一躍スターダムにのし上がり、人気も頂点に達した彼らだが、ジャーヴィスは周囲からの異常な賞賛と、過度の期待がために徐々に精神を蝕まれていき、そこから逃避するかのように酒とドラッグに溺れていった。1997年、ブームの狂騒に嫌悪と無気力感を覚えたジャーヴィスは、これまでと作風の異なる陰鬱な新曲「ヘルプ・ジ・エイジド」を作るが、この曲がパルプに相応しくないと感じたラッセル・シニアがバンドを脱退する。1983年に加入したラッセルは、ジャービスを除けば最も古いメンバーであった。

残った5人によって1998年に発表されたアルバム『ディス・イズ・ハードコア』は、全編を通して暗く重いトーンの仕上がりとなった。全英1位を記録こそしたが周囲の期待を裏切る内容となったためか、前作から大きく売り上げを落とし、奇しくもブラーデーモン・アルバーンがこの時期発言した「ブリットポップは死んだ」ということを裏付けるかのような結果となってしまった。

2001年に、ジャービスが尊敬するスコット・ウォーカーにプロデュースを依頼した『ウィ・ラヴ・ライフ』を発表するころにはブリットポップブームは完全に終息しており、チャートでは全英6位を記録。2002年にベストアルバムを発売したが全英71位にとどまり、メンバーはこれ以上のバンドの存続は困難と判断し、活動停止を決断した。
パルプ再始動まで

メンバーはその後、他バンドのサポートを務めたり、片手間にクラブでDJをしたりして過ごす。ジャーヴィスは結婚してパリに移住し、時折、パルプのベーシスト、スティーヴ・マッキーとThe Tripなるキュレーション・アルバムを発表したり、同じくパルプのスティーヴ・マッキー、及びレディオヘッドジョニー・グリーンウッドフィル・セルウェイと共に映画ハリー・ポッターと炎のゴブレットに魔法使いのバンドとしてカメオ出演したりするなどしていた。

2007年になってジャーヴィスは、ベーシストにパルプのスティーヴ・マッキー、ギタリストにパルプのツアーサポートメンバーのリチャード・ハーレイ(元ロングピッグス)を迎えて、セルフタイトルのソロ・アルバムを発表。


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