パルチザン_(ユーゴスラビア)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1942年、パルチザンの各組織は公式に、ユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊へと統合され、1942年12月の時点で23万6千人の兵士を擁するまでになった[25]
戦闘詳細は「ユーゴスラビア人民解放戦争」を参照
抵抗運動とそれに対する報復

パルチザンが枢軸勢力に対するゲリラ戦を始めた当初は、パルチザンの組織は小規模で、軍事訓練もされておらず、また装備も貧弱であった。しかし、ユーゴスラヴィア域内で活動する他の抵抗組織と比べて、2つの点で優れていた。1つめに挙がるのは、パルチザンには少数ながらも無視できない数のスペイン内戦の経験者がおり、ユーゴスラヴィアの置かれている状況に似た環境での現代戦争の経験があったことである。2つめは、パルチザンは民族に基づかずイデオロギーに基づく集団であったため、多民族国家であるユーゴスラヴィアの全ての民族集団から一定数の支持を得ることができたという点である。これによってパルチザンはより多くの人々を対象に兵士を募集することができ、また域内での可動性を高めることができた。この利点は後になるにつれて大きくなっていった。

これに対してユーゴスラヴィアを占領する枢軸勢力やその協力者らはパルチザンの存在を大きな脅威と捉え、7回に及ぶ反パルチザン攻勢などにより抵抗組織の破壊を試みた。

第1次反パルチザン攻勢(First anti-Partisan Offensive)は、1941年秋に枢軸勢力によって行われた大規模攻勢であり、セルビア西部に成立したパルチザンによる解放区「ウジツェ共和国」(Republic of U?ice)に対して行われた[26]。1941年11月、ナチス・ドイツはこの領域を攻撃して再占領し、パルチザン兵士の多くはボスニア東部へと脱出した[27]。この戦闘の最中にチェトニクとパルチザンによる脆弱な協力関係が崩壊し、それ以降は互いを公然と敵視するようになった[28]

第2次反パルチザン攻勢(Second anti-Partisan Offensive)は、1942年1月に枢軸勢力によってボスニア東部のパルチザンに対して行われた[26]。パルチザンは包囲を破ってサラエヴォ近くのイグマン山へと退却した[29]

第3次反パルチザン攻勢(Third anti-Partisan Offensive)は1942年の春に枢軸勢力によって、ボスニア東部からモンテネグロサンジャクおよびヘルツェゴヴィナにかけて行われた[26]。この攻勢はドイツ側では「トリオ作戦」と呼ばれたが、パルチザンは辛くも脱出に成功した[30]

第4次反パルチザン攻勢は、ネレトヴァの戦いと呼ばれ、1943年1月からボスニア西部からヘルツェゴヴィナ北にかけて行われた。枢軸勢力は解放区「ビハチ共和国」(Republic of Biha?)の破壊を目的とし、パルチザンはネレトヴァ川を渡って南側へと脱出した[31]

第5次反パルチザン攻勢(Fifth anti-Partisan Offensive)は、スティエスカの戦い、あるいはドイツ側では「黒作戦」(Fall Schwarz)と呼ばれる[26]。ボスニア南東部からモンテネグロ北部にかけて、第4時攻勢の直後から始まった。

第6次反パルチザン攻勢(Sixth anti-Partisan Offensive)は、イタリアが降伏に伴って撤退するアドリア海沿岸地域を引き続き確保するためにドイツ国防軍およびウスタシャによって1943年の秋から1944年初頭にかけて行われた[26]

第7次反パルチザン攻勢(Seventh anti-Partisan Offensive)は、1944年春にボスニア西部で行われた枢軸勢力による最後の対パルチザン大攻勢であり、レッセルシュプルング作戦(Operation Rosselsprung)と呼ばれる軍事作戦や、ティトーの殺害などによるパルチザン指導者の無力化を目的としていた[26]

これらの対パルチザン攻勢は、ドイツ国防軍親衛隊(SS)、イタリア軍、ウスタシャチェトニク、ブルガリア軍などによって行われた。
連合国の支援「テヘラン会談」も参照

連合国は当初、ドラジャ・ミハイロヴィッチのチェトニクを支援していたが、後期にはパルチザンが形式的な支持や、一部の物資支援を受けるようになった。1942年には物資支援は限定的ではあったものの、チェトニクと並んでパルチザンは連合国の支援対象となった。

第5次反パルチザン攻勢の頃、イギリスの情報機関による報告では、パルチザンがドイツ軍に対して勇敢によく戦っていること、多くの負傷者が出ていること、支援が必要であることが述べられ、またドイツ国防軍第1山岳師団(1st Mountain Division)がチェトニク支配下の領域を通行して(独ソ戦の戦場である)ロシアから移動してきていることが述べられている。また、ドイツ軍の通信を傍受した結果から、チェトニクがドイツに攻撃できない臆病者であると確信したとしている。この報告は連合国によるユーゴスラヴィア支援の方針を転換させるものとなった。1943年9月、英国首相ウィンストン・チャーチルの指示により、パルチザンと接触を図るために、イギリス軍准将サー・フィッツロイ・マクリーン(Sir Fitzroy MacLean)がドルヴァル川近くに司令部を構えるティトーの元にパラシュート降下した。この頃、チェトニクは依然、連合国の支援を受けていたが、これ以降パルチザンもまた連合国の支援を受けられるようになった[32]

テヘラン会談以降、パルチザンは公式にユーゴスラヴィアにおける解放軍として認められ、イギリス空軍はパルチザンへの物資支援および戦術的な航空支援を目的としてバルカン空軍(Balkan Air Force)を設立した。1943年11月24日の米国大統領フランクリン・ルーズベルト連合参謀本部の会談で、チャーチルは以下の点に言及した.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}22万2千人を数えるティトーの勢力に対してこれまで海路でほとんど何の補給品も送られなかったのは遺憾である(…)英米軍がローマ南方のイタリアで拘束しているのと同じ数のドイツ兵を、これらの勇敢な兵士たちはユーゴスラヴィアで拘束している。イタリアの降伏によってドイツ軍は混乱に陥り、ユーゴスラヴィアの愛国者たちは沿岸部の広大な領土を確保した。しかし、われわれはこの好機を捕えなかった。ドイツ軍は態勢を立て直し、次第にパルチザンを追い詰めつつある。その主因は、バルカン半島を人工的に分割した[西側連合軍とソ連軍の]責任区域にある(…)われわれが何もしなくてもパルチザンがこれだけ大きな成果をもたらしてくれたことを考慮すれば、彼らの抵抗運動が維持され動揺しないようにすることには非常に重要である。—ウィンストン・チャーチル、1943年11月24日[33]
1943年-1945年:活動の拡大

連合国による航空支援や独ソ戦でドイツを押し返しバルカン半島に進撃してきたソ連軍による支援もあり[34]、ウジツェ共和国の失敗以降目立って戦闘のなかったセルビアでも、1944年の後半にはパルチザンが支持を集めるようになった。1944年10月20日にはパルチザンとソ連軍の共同によるベオグラード攻勢(Belgrade Offensive)によって、ベオグラードが解放された。

1945年にはパルチザンの総数は80万人強に達しており[18]、激戦となったスレム戦線を制し、4月初旬にはサラエヴォを解放、クロアチア独立国軍やドイツ国防軍を駆逐し、5月中旬にはクロアチア独立国の残りの領域とスロヴェニアを解放した。戦前はイタリア領であったリエカおよびイストラ半島を確保し、連合軍よりも2日早くトリエステを占領した[35]

第二次世界大戦のヨーロッパ最後の戦いであったポリャナの戦い(Battle of Poljana)は、1945年5月14日から15日にかけてスロヴェニアのコロシュカ地方プレヴァリェにて発生し、パルチザンは退却中のドイツ国防軍やその協力者勢力と戦った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:147 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef