パルチザン_(ユーゴスラビア)
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正式名称はユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊[8]スロベニア語:Narodnoosvobodilna vojska in partizanski odredi Jugoslavije、セルビア・クロアチア語:Narodnooslobodila?ka vojska i partizanski odredi Jugoslavije / Народноослободилачка во?ска и партизански одреди ?угослави?е。パルチザンは、ユーゴスラビア共産党率いる人民解放戦線の軍であり[1]、その最高意思決定機関はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)であり、ヨシップ・ブロズ・ティトーを最高指導者としていた。
概要

パルチザンはユーゴスラビアにおける共産主義国家の樹立を目指しており[9]、ユーゴスラビア共産党はユーゴスラビアに住む全ての民族の権利を擁護し、全ての民族に対して支持を訴えた。パルチザンよりも数週間早く設立された、もう一つの反枢軸の抵抗組織にチェトニクがあったが、チェトニクはカラジョルジェヴィチ家による王制の維持と、セルビア人の保護を目的としており[10][11]、チェトニクが正当で歴史的なセルビア人の土地と考える地域における他民族に対する民族浄化を通じて大セルビアを確立することを目指していた[12][13][14][15][16]。パルチザンとチェトニクの関係は当初より険悪であったが、1941年10月以降は全面的な衝突へと発展した。ティトーの汎民族主義は、チェトニクのセルビア人民族主義に反するものであり、チェトニクの王党主義は共産主義者のパルチザンには受け入られるものではなかった[17]

彼らは一般に「パルチザン」(パルティザン)と呼ばれており、この名前からはゲリラ勢力が想起されるが、彼らのゲリラ的な性質は最初の3年間でのことであった。1944年の終わり頃には、パルチザンの兵士の数は65万人におよび、4つの方面軍、52の師団を持つ軍隊組織となっていた[18]。1945年4月にはパルチザンの兵士は80万人を数えるようになり、この時代のパルチザンは「人民解放軍」と呼ばれることが多い。
背景「ユーゴスラビア侵攻」および「バルカン戦線 (第二次世界大戦)」も参照パルチザンの戦士スティエパン・フィリポヴィッチ。彼はヴァリェヴォにて枢軸国勢力に処刑される直前、「ファシズムに死を、人民に自由を」(Smrt fa?izmu, sloboda narodu!)と叫んだ。

1941年4月6日、ユーゴスラビア王国は四方より枢軸勢力の侵略を受けた。侵攻にはナチス・ドイツのほかに、イタリア王国ハンガリー王国ブルガリア王国が加わった。この時、ドイツ空軍によるベオグラード空爆(Bombing of Belgrade in World War II)が行われた。侵略は10日前後で完了し、4月17日にユーゴスラビア王国軍は無条件降伏した。ユーゴスラビア王国軍はドイツ国防軍と比べて装備が貧弱であったことに加え、あらゆる方面から一斉に侵入する枢軸勢力と戦うにはあまりに規模が小さすぎた[19]

枢軸国によるユーゴスラビア支配は極めて過酷なものであり、ユーゴスラビアは領土をばらばらに解体された。ドイツはスロベニアの主要部を併合し、また傀儡政権として設立されたセルビア救国政府の領域を占領するとともに、クロアチア独立国などの傀儡国家に対しても影響力を及ぼした[20]クロアチア独立国はこんにちのクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナ、さらにセルビアスレム地方を領土とした。ベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国はスロベニアの南部、コソボ、そしてダルマチアの沿岸部およびアドリア海の島々を手に入れた。またイタリアはモンテネグロを支配下に置き(イタリア支配下のモンテネグロ)、またイタリア王家はクロアチア独立国の王位を手に入れた。ハンガリー王国はバラニャや、バチュカなどのヴォイヴォディナの一部、クロアチアのメジムリェ地方、スロベニアのプレクムリェ地方を併合した。ブルガリア王国は、こんにちのマケドニア共和国に相当する地域の大部分、およびセルビア東部とコソボの一部を併合した[21]。ユーゴスラビア王国の解体とクロアチア独立国、セルビア救国政府といった傀儡政権の樹立、枢軸国による占領と併合は、当時の国際法にも反するものであった[22]

枢軸勢力による地域住民に対する過酷な支配により、パルチザンは住民の広範な支持を得ただけでなく、住民が生き残るための唯一の選択肢であった場合も多い。占領初期には、ドイツ軍は女性や子ども、老人を含む一般市民への無差別殺戮を各所で展開し、ドイツ兵1人の死亡につきセルビアの市民100人、ドイツ兵1人の負傷につき市民50人を殺害するという異常な方針を取った。この他にも枢軸勢力やその協力者による蛮行はユーゴスラビア全土で繰り広げられた。クロアチア独立国の領土ではウスタシャやドイツ軍による民族浄化などの蛮行が盛んに行われた。

ユーゴスラビア全土を取り巻くこうした無法状態の中、ユーゴスラビア共産党は反ファシズムの抵抗勢力を糾合し、全国的な抵抗運動へと組織化していった。ヨシップ・ブロズ・ティトー率いるユーゴスラビア共産党は戦間期ユーゴスラビア王国で非合法化され、それ以降は地下活動を続けていた。
活動初期

1941年6月22日のバルバロッサ作戦によって枢軸勢力はソビエト連邦への侵略を始めた[23]。ユーゴスラビアで初の共産主義者による抵抗者の軍事組織であるシサク人民解放パルチザン部隊(Sisak People's Liberation Partisan Detachment)は、ドイツがソビエト連邦に侵攻を始めた1941年6月22日に組織された。ティトーが率いる抵抗運動が初めて武装抵抗を始めたのは、この2週間後、セルビアでのことであった[24]

ユーゴスラビア共産党は7月4日、武装抵抗を始めることを正式に決定し、この日は後のユーゴスラビア社会主義連邦共和国において「戦士の日」として国民の祝日となった。7月7日、ジキツァ・ヨヴァノヴィッチ・シュパナツ(?ikica Jovanovi? ?panac)が最初の一発の銃弾を放って、武装抵抗は始まった。


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