パルチザン_(ユーゴスラビア)
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チェトニクはボスニア東部においてムスリムに対する民族浄化作戦を行っており、ムスリムやクロアチア人の加入を排除した[49]。また、ダルマティア北部では、ダルマティアを支配し同地に対する領土的野心を持っていたイタリアがチェトニクと協力したことがあり、これによってパルチザンを支持する多数のクロアチア人が殺害される蛮行が引き起こされた。一例として、スプリト近郊のガラ(Gala)をチェトニクが襲撃した際には、200人の市民が殺害された[50]ベニート・ムッソリーニによるダルマティアの強制的なイタリア化政策が取られた1941年後期には、クロアチア人パルチザンの数が大幅に増加している。

この他の地域では、パルチザンを純粋にセルビア人のみの組織と考える一部のセルビア人パルチザンによって、クロアチア人などの加入が排除され、またクロアチア人の村が襲撃されることがあった[41]サラエヴォユダヤ人の青年らがカリノヴニク(Kalinovnik)のパルチザン分隊に加入しようとした際、セルビア人パルチザンらがこれを排除して青年らをサラエヴォに差し戻し、その後、彼らの多くが枢軸勢力に捕らえられて殺害された[51]。クロアチア人ファシスト組織であるウスタシャによるセルビア人への蛮行は、セルビア人をゲリラ戦へと向わせる強い動機となり、多くのセルビア人がパルチザン兵士となった[52]

連合国の勝利が明らかになった時には、ユーゴスラヴィアの非セルビア人の住民らは、セルビア人民族主義を志向するユーゴスラビア王国の王党派よりも、パルチザンのほうがより良い未来をもたらすものと考えていた。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルチザンによって使用された、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ国の国旗

1942年初期までは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルチザンの大部分はセルビア人のみであり、チェトニクとも協力関係にあった。ヘルツェゴヴィナ東部およびボスニア西部のパルチザンの一部はボシュニャク人(ムスリム人)の加入を拒否していた。ボスニアのムスリムたちにとって、こうしたパルチザンの言動はチェトニクのそれと大きく変わらないと映っていた。しかし、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部の地域では初期の段階からクロアチア人やムスリムがパルチザンに加わっており、ボスニア北西部のコザラ山(Kozara)やサラエヴォ近くのロマニヤ地方ではこうした傾向が見られた。コザラでは、1941年末の時点で兵士の25%がクロアチア人やボシュニャク人であった[53]

1943年後期の時点で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルチザンの70%はセルビア人、30%がクロアチア人およびボシュニャク人であった[54]戦争の期間全体を通してのボスニア・ヘルツェゴヴィナのパルチザンのうち、64.1&はセルビア人、23%はボシュニャク人、8.8%はクロアチア人であった[54]。なおセルビアパルチザンは親ソ連と共産主義に加えて民族主義が強い傾向にある。
クロアチアクロアチアのパルチザンによって使用された、クロアチア国の国旗

1941年および1942年において、クロアチアのパルチザンの主流を占めているのはセルビア人であったが、1943年10月の時点ではクロアチア人が多数派となっている。クロアチア農民党(Croatian Peasant Party)のボジダル・マゴヴェツ(Bo?idar Magovac)が1943年6月にパルチザンに加入したことも、およびイタリアが降伏したこともこの一因と考えられる[55]

クロアチアにおいて、パルチザン運動はクロアチア社会の主流にまで食い込み、1943年の時点でクロアチア出身のパルチザンの多数をクロアチア人が占めるようになった。1944年後期の統計によると、クロアチア出身のパルチザン兵士の61%はクロアチア人、28%はセルビア人であり、クロアチアの民族別人口比率に比べるとセルビア人の割合が多いものの、クロアチア人が多数を占めていたことがわかる[41][56][57][58]。枢軸勢力への協力を止めてパルチザンに加われば敵通の罪を免除するとする恩赦が1944年9月15日に発令され、これによってクロアチア人のパルチザン参加が拡大した。

1941年末の時点でクロアチアのパルチザンの77%はセルビア人、21.5%はクロアチア人やその他の民族であった。クロアチアのパルチザンにおけるクロアチア人の比率は1942年8月には32%、1943年9月には34%にまで上昇した。イタリアの降伏後にはクロアチア人の兵士数は急増し、1944年末には60.4%がクロアチア人、セルビア人が28.6%、ボシュニャク人が2.8、その他が8.2%となった[59][44]1941年から1945年の全体を通して、クロアチアのパルチザンの61%はクロアチア人であり、その他にはスロヴェニア人、ボシュニャク人、モンテネグロ人イタリア人ハンガリー人チェコ人ユダヤ人ドイツ人などがいた[41]

クロアチアのパルチザンはユーゴスラヴィアのパルチザン全体の中で重要な比率を占めていた。クロアチアの人口はユーゴスラヴィア全体の24%であったが、クロアチア出身のパルチザン兵士の数はセルビア、モンテネグロ、スロヴェニア、マケドニア(4地域合計でユーゴスラヴィアの人口の59%に達する)の出身者よりも数が多かった[41]。また、クロアチアのパルチザンの特色としてユダヤ人の比率が高かったことが挙げられる。彼らは1943年初期の時点で、枢軸勢力に対抗するクロアチア全体の最高意思決定機関としてクロアチア人民解放国家反ファシスト委員会(ZAVNOH)を設立した。これは、ヨーロッパにおける反枢軸レジスタンスの中で初めてのことであった。ZAVNOHの最後の会合は1945年7月24日-25日にザグレブで行われ、この会合にて自身をクロアチア議会へと改組することが決議された[60]
スロヴェニアスロヴェニアのパルチザンによって使用された、スロベニア人民解放戦線の旗トリグラウ型」の帽子

初期の頃は、スロヴェニアにおけるパルチザンの勢力は小さなもので、インフラストラクチャを持たず、装備も貧弱であったが、ゲリラ戦の経験を有するスペイン内戦の経験者が含まれていた。スロヴェニアにおけるパルチザンは、スロベニア人民解放戦線(Liberation Front of the Slovene Nation)の軍事部門に位置づけられており、スロベニア人民解放戦線は1941年4月26日にイタリア占領下の領域(リュビアナ州、Province of Ljubljana)で設立され、当初は複数の左翼系組織が合同したものであった。戦時中、次第にスロヴェニア共産党の影響力が強まり、1943年3月1日のドロミティ宣言(Dolomiti Declaration)により共産党の指導性が公式化された[61]。人民解放戦線のメンバーの一部はTIGR(TIGR)の出身であった。

スロヴェニア人民解放戦線に加わる全ての政治組織の代表者は人民解放戦線最高総会に参加し、スロヴェニアにおける抵抗運動を指導した。最高総会は1943年10月3日、コチェーヴィエにて120人から成る人民解放会議のメンバーを選出した(コチェーヴィエ総会)。最高総会はスロヴェニアの反ファシスト勢力の最高意思決定機関として機能し、その代表者はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議の第2回会合にも出席し、ユーゴスラビアを連邦制としスロヴェニアをその構成国と位置づけられた。1944年2月19日のチュルノメリでの会合時に、最高総会はスロベニア人民解放委員会へと改組され、その後、スロヴェニア国の議会へと改組された。

スロヴェニアのパルチザンは独自の組織を持ち、その指揮にはスロベニア語が用いられた。1942年から1944年までの間、トリグラウカ(Triglavka)と呼ばれる帽子が使用されていたが、その後ティトヴカ(Titovka)に置き換えられた[62]。1945年3月、スロヴェニアのパルチザン部隊は正式にユーゴスラビア人民軍へと編入され、独自組織としての幕を閉じた。

スロヴェニアのパルチザン運動は、ティトーに率いられたユーゴスラビア中南部のパルチザンとは別に、1941年に独自に始まったものである。1942年9月、ティトーは初めてスロヴェニアの抵抗運動への指導権獲得を試みた。1943年4月にティトーによりスロヴェニアに送り込まれたアルサ・ヨヴァノヴィッチは、スロヴェニアの抵抗運動の統制獲得を試みたが失敗に終わっている。


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