パルチザン_(ユーゴスラビア)
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パルチザンは包囲を破ってサラエヴォ近くのイグマン山へと退却した[29]

第3次反パルチザン攻勢(Third anti-Partisan Offensive)は1942年の春に枢軸勢力によって、ボスニア東部からモンテネグロサンジャクおよびヘルツェゴヴィナにかけて行われた[26]。この攻勢はドイツ側では「トリオ作戦」と呼ばれたが、パルチザンは辛くも脱出に成功した[30]

第4次反パルチザン攻勢は、ネレトヴァの戦いと呼ばれ、1943年1月からボスニア西部からヘルツェゴヴィナ北にかけて行われた。枢軸勢力は解放区「ビハチ共和国」(Republic of Biha?)の破壊を目的とし、パルチザンはネレトヴァ川を渡って南側へと脱出した[31]

第5次反パルチザン攻勢(Fifth anti-Partisan Offensive)は、スティエスカの戦い、あるいはドイツ側では「黒作戦」(Fall Schwarz)と呼ばれる[26]。ボスニア南東部からモンテネグロ北部にかけて、第4時攻勢の直後から始まった。

第6次反パルチザン攻勢(Sixth anti-Partisan Offensive)は、イタリアが降伏に伴って撤退するアドリア海沿岸地域を引き続き確保するためにドイツ国防軍およびウスタシャによって1943年の秋から1944年初頭にかけて行われた[26]

第7次反パルチザン攻勢(Seventh anti-Partisan Offensive)は、1944年春にボスニア西部で行われた枢軸勢力による最後の対パルチザン大攻勢であり、レッセルシュプルング作戦(Operation Rosselsprung)と呼ばれる軍事作戦や、ティトーの殺害などによるパルチザン指導者の無力化を目的としていた[26]

これらの対パルチザン攻勢は、ドイツ国防軍親衛隊(SS)、イタリア軍、ウスタシャチェトニク、ブルガリア軍などによって行われた。
連合国の支援「テヘラン会談」も参照

連合国は当初、ドラジャ・ミハイロヴィッチのチェトニクを支援していたが、後期にはパルチザンが形式的な支持や、一部の物資支援を受けるようになった。1942年には物資支援は限定的ではあったものの、チェトニクと並んでパルチザンは連合国の支援対象となった。

第5次反パルチザン攻勢の頃、イギリスの情報機関による報告では、パルチザンがドイツ軍に対して勇敢によく戦っていること、多くの負傷者が出ていること、支援が必要であることが述べられ、またドイツ国防軍第1山岳師団(1st Mountain Division)がチェトニク支配下の領域を通行して(独ソ戦の戦場である)ロシアから移動してきていることが述べられている。また、ドイツ軍の通信を傍受した結果から、チェトニクがドイツに攻撃できない臆病者であると確信したとしている。この報告は連合国によるユーゴスラヴィア支援の方針を転換させるものとなった。1943年9月、英国首相ウィンストン・チャーチルの指示により、パルチザンと接触を図るために、イギリス軍准将サー・フィッツロイ・マクリーン(Sir Fitzroy MacLean)がドルヴァル川近くに司令部を構えるティトーの元にパラシュート降下した。この頃、チェトニクは依然、連合国の支援を受けていたが、これ以降パルチザンもまた連合国の支援を受けられるようになった[32]

テヘラン会談以降、パルチザンは公式にユーゴスラヴィアにおける解放軍として認められ、イギリス空軍はパルチザンへの物資支援および戦術的な航空支援を目的としてバルカン空軍(Balkan Air Force)を設立した。1943年11月24日の米国大統領フランクリン・ルーズベルト連合参謀本部の会談で、チャーチルは以下の点に言及した.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}22万2千人を数えるティトーの勢力に対してこれまで海路でほとんど何の補給品も送られなかったのは遺憾である(…)英米軍がローマ南方のイタリアで拘束しているのと同じ数のドイツ兵を、これらの勇敢な兵士たちはユーゴスラヴィアで拘束している。イタリアの降伏によってドイツ軍は混乱に陥り、ユーゴスラヴィアの愛国者たちは沿岸部の広大な領土を確保した。しかし、われわれはこの好機を捕えなかった。ドイツ軍は態勢を立て直し、次第にパルチザンを追い詰めつつある。その主因は、バルカン半島を人工的に分割した[西側連合軍とソ連軍の]責任区域にある(…)われわれが何もしなくてもパルチザンがこれだけ大きな成果をもたらしてくれたことを考慮すれば、彼らの抵抗運動が維持され動揺しないようにすることには非常に重要である。—ウィンストン・チャーチル、1943年11月24日[33]
1943年-1945年:活動の拡大

連合国による航空支援や独ソ戦でドイツを押し返しバルカン半島に進撃してきたソ連軍による支援もあり[34]、ウジツェ共和国の失敗以降目立って戦闘のなかったセルビアでも、1944年の後半にはパルチザンが支持を集めるようになった。1944年10月20日にはパルチザンとソ連軍の共同によるベオグラード攻勢(Belgrade Offensive)によって、ベオグラードが解放された。

1945年にはパルチザンの総数は80万人強に達しており[18]、激戦となったスレム戦線を制し、4月初旬にはサラエヴォを解放、クロアチア独立国軍やドイツ国防軍を駆逐し、5月中旬にはクロアチア独立国の残りの領域とスロヴェニアを解放した。戦前はイタリア領であったリエカおよびイストラ半島を確保し、連合軍よりも2日早くトリエステを占領した[35]

第二次世界大戦のヨーロッパ最後の戦いであったポリャナの戦い(Battle of Poljana)は、1945年5月14日から15日にかけてスロヴェニアのコロシュカ地方プレヴァリェにて発生し、パルチザンは退却中のドイツ国防軍やその協力者勢力と戦った。既に5月8日、ドイツ本国は降伏していた。欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)も参照。
軍種

パルチザンには陸軍の他に海軍空軍もあり、これはヨーロッパの他の被占領地域におけるレジスタンス運動では類を見ないことであった。
パルチザン海軍

1942年9月19日にアドリア海に面するダルマティア沿岸部のパルチザンが漁船を改造して海軍を設立したのが始まり。その後、規模を拡大しイタリア海軍およびドイツ海軍に対する勇敢な攻撃を遂行してきた。最大時には9隻から10隻の武装船、30の巡視船、200近くの支援船、6の砲台、多数の島嶼部のパルチザン分隊と3千人の兵力を擁した。1943年10月26日に4つの海軍管区(Pomorsko Obalni Sektor、Maritime Coastal Sector)が設置され、後に6つに拡張された。海軍の使命は制海権の確保、沿岸および島嶼部の防衛、敵の海上交通の破壊と島嶼部・沿岸部の敵への攻撃であった[36]
パルチザン空軍

かつてユーゴスラビア王国軍に属していたクロアチア独立国空軍のパイロット、フラニョ・クルズ(Franjo Kluz)およびルディ・チャヤヴェツ(Rudi ?ajavec)が、複葉機ポテーズ 25およびブレゲー 19を伴ってボスニアでパルチザンに投降したことにより、パルチザンは1942年5月に空軍力を獲得した[37]。2人のパイロットはその後、これらの爆撃機を使って枢軸勢力と戦った。空軍を運用するインフラストラクチャが十分ではなかったためにパルチザン空軍は短命に終わったものの、これは対独レジスタンスが空軍力を持った初めての出来事であった[38]。その後、枢軸勢力から鹵獲した航空機などによってパルチザン空軍は再建され、後のユーゴスラビア空軍となる。


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