パリ
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1795年 - 1977年の間、わずかな例外(2月革命後の4人の市長)を除いて市長は置かれず、各区のConseil municipalの議長が実質上は市長のような務めを果たした[28]。1977年以降は「パリ市長」がパリ県知事(Prefet)とコミューンの首長の性格を併せ持っていた。2019年に県とコミューンを統合した特別自治体「パリ市」が誕生したため、パリ市長はその首長となった。

歴代市長-氏名就任離任政党補記(他の資格 等)
-ジャック・シラク1977年3月20日1995年5月16日共和国連合国民議会議員
-ジャン・チベリ1995年5月22日2001年3月24日共和国連合国民議会議員
-ベルトラン・ドラノエ2001年3月25日2014年4月5日社会党元老院議員
-アンヌ・イダルゴ2014年4月5日現職社会党初の女性パリ市長

財政
予算と税収

2011年の当初予算(街および県としてのもの)は約85億8,200万ユーロで、うち69億600万ユーロが行政活動に、16億7,600万ユーロが投資に充てられている[29]。債務残高は約26億9,600万ユーロである。2008年の県債は266億ユーロにのぼる[30]
司法機関
司法裁判所系統

パリ大審裁判所シテ島パレ・ド・ジュスティス (パリ)に置かれている。この裁判所は、フランスの大部分の訴訟事件を取り扱う巨大司法機関である[31]。各区には小審裁判所が置かれている。

パリ商事裁判所は、やはりシテ島(コルス河岸)に置かれている。パリ違警罪裁判所は19区(rue de Cambrai)、パリ労働審判所は10区(rue Louis-Blanc)にそれぞれ置かれている。

パリのみを管轄する裁判所以外に、複数の県を管轄するパリ控訴院もパレ・ド・ジュスティスに置かれている。その管轄は、セーヌ=エ=マルヌ県エソンヌ県セーヌ=サン=ドニ県ヴァル=ド=マルヌ県ヨンヌ県である。パリ控訴院の管轄区域には、フランス全人口の12.6パーセントが暮らしている[32]。なお、ほかのイル=ド=フランス地域圏内の各県およびウール=エ=ロワール県は、ヴェルサイユ控訴院の管轄となる[33]
行政裁判所系統

パリは、4区所在のパリ地方行政裁判所の管轄に属する。控訴は、パリ行政控訴院に対して行うことになる(ほかに、マタ・ウトゥムランヌーヴェル・カレドニーフランス領ポリネシアの各地方行政裁判所からの控訴を受ける)。
最高裁判所及び憲法裁判所

パリ(1区)には、司法と行政それぞれの最高裁判所である破毀院国務院(コンセイユ・デタ) に加え、憲法評議会(英語版)(憲法院)も置かれている。
行刑施設

パリのいくつかの刑務所は今日でも有名である。

右岸のグラン・シャトレは、王の刑務所を内部に置き、その別館(左岸のプティ・ポンにあるプティ・シャトレ)とともに、14世紀から破壊される1782年まで投獄所および拘置場所とされていた。

コンシェルジュリーバスティーユ牢獄ヴァンセンヌ城の3つの刑務所は、歴史的なシンボルとなっている。コンシェルジュリーはパリの裁判所固有の刑務所であったが、フランス革命の間にマリー・アントワネットやほかのギロチン犠牲者を迎えたあとも、1914年まで拘置所として機能し続けた。バスティーユ牢獄は1370年から構築され、リシュリューが権力を振るっていたころに国の刑務所となった。 ヴァンセンヌ牢獄は、やはり1784年まで国会の刑務所であったが、その名の通りの投獄の場というよりもむしろ軟禁場所であり、第二帝政下までしばしばそのように使われていた。

1830年から1947年まで11区にロケット刑務所があったが、パリで唯一残存する刑務所(兼拘置所)は1867年に開設されたサンテ刑務所のみである。イル=ド=フランス地域圏の主要な刑務所兼拘置所(Maison d'arret、メゾン・ダレ)は、フレンヌ (ヴァル=ド=マルヌ県)とフルリー=メロジ(エソンヌ県)にある。ほかに、ポワシーにある困難受刑者が収容されるメゾン・サントラルがある。
施設
警察

セーヌ=サン=ドニ県オー=ド=セーヌ県ヴァル=ド=マルヌ県と同様にパリ警視庁の管轄下にある。

イル=ド=フランス地域圏で犯される重罪および軽罪は、フランス全土での4分の1を占める。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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