パリ
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1912年12月23日のボンヌヴェ法は全会一致で可決され、パリ市が低廉住宅を建設するために要請していた2億フランの借款を認めた[19]

第一次世界大戦の緒戦ではドイツ軍がパリの目前にまで迫り、政府が一時ボルドーに避難するほどであったが、マルヌ会戦の勝利により辛くも陥落を免れた。しかし1914年8月30日にはドイツ軍機からの爆弾の投下(都市爆撃の先駆けとされる[20])や大戦後半にはパリ砲による砲撃を受けた。戦間期にはパリは芸術の都としての地位を回復し、アメリカやヨーロッパなどから多くのボヘミアンたちを惹きつけた。

しかし第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツのフランス侵攻開始から1か月で政府はパリを放棄せざるを得なくなり、1940年6月11日首都機能をトゥールに移転[21]。パリは6月13日に非武装都市宣言を行った[22]ことで市街戦は回避され、翌6月14日にはドイツ軍が進駐し、パリを無血で占領した[23]。パリが外国軍の手に落ちるのは4度目(過去3回は百年戦争ナポレオン戦争による敗北、普仏戦争)であった[24]。6月23日にはアドルフ・ヒトラーがパリに入った。占領下のパリではレジスタンス運動に身を投じる者がいる一方で、積極的にドイツ軍に協力する市民もいた。後者はのちに対独協力者(コラボラトゥール)として糾弾されることになる。

ノルマンディー上陸作戦から2か月半後の1944年8月24日、アメリカ軍がパリ郊外に達しドイツ軍と交戦。翌25日にはアメリカ軍と自由フランス軍が市内中心部に達し、連合国による解放が実現した[25]。このときドイツ軍のパリ駐留部隊を指揮していたディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍は、ヒトラーからパリを破壊するよう命令されていたが、これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏した。この英断によりフォン・コルティッツは戦後、フランスから名誉パリ市民号を贈られている。

20世紀のパリは文化的にも成熟し、アルベール・カミュジャン=ポール・サルトルらが実存主義を生み出し、マルセル・プルーストアンドレ・ジッドなどの小説家が輩出された。1960年に創刊された前衛雑誌『テル・ケル』にはロラン・バルトジョルジュ・バタイユミシェル・フーコージャック・デリダジュリア・クリステヴァらが名を連ね、構造主義ポスト構造主義は世界的な影響力を持ち、フランス現代思想が隆盛を極めた。映画界では、1950年代末から1960年代中盤にかけて、ジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォーヌーヴェルヴァーグが台頭した。

人民戦線の頃以降のフランス共産党の党勢拡大などを背景として、1968年1月1日、セーヌ県が廃止され、パリは特別市となった。このような政治的や文化的状況下で、五月革命が起こった。

1950年代以降のパリでは、おもに郊外(バンリュー)で人口が急増した。環状高速道路ペリフェリックをはじめとする高速道路網や、郊外と都心を直結する鉄道RERなどが整備され、ラ・デファンス地区がオフィス街として開発された。

一方で豊かな都心と貧しい郊外という構図が生まれ、失業や治安の悪化が社会問題となった。2005年にはパリ郊外暴動事件が発生した。2015年11月にはパリ同時多発テロ事件が発生した。
政治
行政
行政機構の変遷


左:1795年から1860年までの12の行政区と48のカルティエ/右:1860年以降の20の行政区

フランス革命後の地方自治制度では、パリ市はセーヌ県(当初の名称はパリ県)に属する一コミューンであり、同県の県庁所在地であった。当時の市域は現在より狭く、フェルミエー・ジェネローの城壁(現在は、ほぼその跡に沿ってメトロ2号線6号線が走っている)の内側のみであった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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