パリ
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パリ市では住居が狭く高額であることが、その主因である[12]
経済格差パリの地区毎の年間平均所得の分布[13]

高所得者層はおもに西部に、低所得者層や移民はおもに北東部に居住している。

パリ市の平均世帯所得はフランス全体の平均より高く、隣接する郊外のオー=ド=セーヌ県イヴリーヌ県エソンヌ県ヴァル=ド=マルヌ県の4地域の平均所得も国内で最高水準であり、イル・ド・フランス地域圏に高所得者層が集中している。

しかしパリ市内の社会的格差の状況は、さらに複雑である。伝統的には豊かなパリ市西部と、貧しいパリ市東部という構図がみられる。実際、7区の平均世帯所得(2001年)は3万1,521ユーロにのぼり、19区の1万3,759ユーロの2倍以上となっている。イル・ド・フランス地域圏において、パリ6区7区8区16区はもっとも高所得の地域、10区18区19区20区はもっとも低所得の地域に分類される。さらに、市内の19区の状況はそのまま所得が低い北東部郊外のセーヌ=サン=ドニ県に連なる一方、16区の外縁は西部の豊かな郊外に続く。

18区19区20区にはパリの貧困層の4割が集中し、学校の中退、失業、健康問題などが集中している。EU域外からの移民は、フランス国内の出身者に比べて、貧困な状況に置かれていることが多い。
移民

18区マグリブや、最近はサブサハラ地域のアフリカからの移民が多い。フランスの国勢調査では法律上、民族や宗教の属性を問うことができないが、出身地の情報は得ることができる。1999年の国勢調査によると、パリ都市圏はヨーロッパでもっとも多民族化が進んでいる地域のひとつであり、人口の19.4パーセントがフランス本国外の出身である[14]。また、パリ都市圏の人口の4.2パーセントは1990年から1999年の間にフランスにやってきた新しい移民であり、その大半は中国またはアフリカ出身である[15]。さらにパリ都市圏の人口の15パーセントはイスラム教徒である。「ジプシー」も参照

パリへの大量の移民の第一波は1820年代、ドイツの農民が、農業危機とナポレオン・ボナパルトの侵攻にともなって移住してきたことによる。その後、今日に至るまで、何度か移民の波が続いている。19世紀はイタリア人と中央ヨーロッパのユダヤ人、1917年のロシア革命後はロシア人、第1次世界大戦中は植民地の国々から、大戦間期はポーランド人、1950年代から70年代はスペイン人、イタリア人、ポルトガル人、北アメリカ人、またアフリカ・アジア地域の独立後はユダヤ人が移民してきた[16]。移民の居住区域は、それぞれ出身地ごとに異なっている。
風景 エッフェル塔からのパリの360度のパノラマ トゥール・モンパルナスからのパリのパノラマ
歴史国立中世美術館に残るクリュニー浴場のカルダリウム9世紀のシテ島の地図1223年のパリヴァンセンヌ城詳細は「パリの歴史」を参照「フランスの歴史」も参照
古代

パリ盆地を流れるセーヌ川の中洲シテ島は古くから同川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあった。紀元前1世紀ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場(闘技場)や公衆浴場などが築かれた。現在でも5区に円形劇場・闘技場の遺跡(アレーヌ・ド・リュテス)や浴場跡が残っている。しかし、ローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテティアに代わり「パリ」と呼ばれるようになった。
フランク王国

5世紀末にフランク族の王クローヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。

885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このとき、フランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代わってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。
カペー朝


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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