パラマウント・ピクチャーズ・コーポレーション(Paramount Pictures Corporation)は、アメリカの映画およびテレビ番組の製作・配給会社であり、パラマウント・グローバルの子会社。世界で5番目に古い映画スタジオであり[1]、アメリカでは2番目に古い(ユニバーサル・ピクチャーズ設立の8日後)1912年に設立された映画スタジオ。「ビッグ5」と呼ばれるアメリカの映画スタジオの中で唯一、現在もロサンゼルス市内に存在する。
1916年、映画プロデューサーのアドルフ・ズコールは24人の俳優と女優を契約させ、それぞれにロゴに星をつけた。1967年、星の数は22個に減らされ、隠された意味も取り払われた。2014年、パラマウント・ピクチャーズはハリウッドのメジャースタジオとして初めて、全作品をデジタルのみで配給するようになった。本社とスタジオは、カリフォルニア州ハリウッドのメルローズ通り5555番地にある。
モーション・ピクチャー・アソシエーション(MPA)のメンバーである。日本ではパラマウント映画(パラマウントえいが)の名前で知られている。 1912年にアドルフ・ズコールが設立した「フェーマス・プレイヤーズ」を源流とし、その後「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ」と呼称して、1924年に「パラマウント」に社名を変えた。ただしパラマウントはもともと1914年にW・W・ホドキンスンが設立した映画配給会社[2]の社名であり、アドルフ・ズコールのフェーマス・プレーヤーズが製作した映画の多くを配給していた会社であった。そして1916年にズコールがこの配給会社の実権を握り、同じ年に1913年に設立された「ジェシー・L・ラスキー・フィチャー・プレイ・カンパニー」と「フェーマス・プレーヤーズ」と合わせて3社が合併して「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ」となり、その後社名を「パラマウント」にしたものである。 アメリカ映画界で設立当初から大手メジャー会社として君臨し、製作と配給部門を掌握したズーカーがやがて劇場の買収を進め、アメリカの映画史上初めて製作・配給・興行の垂直統合を実現して、徹底したスターシステムと豪華主義でサイレント時代から映画界をリードしていたが、大恐慌時には破産宣告を受ける。しかし1935年頃に再建して後には都会派コメディーに力を入れて復活した。1966年にはコングロマリットのガルフ&ウェスタンの傘下となり、1994年には大手ケーブル会社バイアコム(現・パラマウント・グローバル)に買収されて今日に至っている。大型画面が盛んとなった1950年代に独自にワイドスクリーンのビスタビジョン(ビスタサイズ)を開発したことでも知られる[3]。 この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2022年7月)
概要
歴史
1912年 - アドルフ・ズコールが「フェイマス・プレイヤーズ」を設立する。
1916年 - 映画製作会社「ジェシー・L・ラスキー・フィチャー・プレイ・カンパニー」(1913年に設立)と合併し、「フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオ」となる。
1927年 - 社名を「パラマウント」に改称する。
1933年 - 財政難で破産宣告。
1935年 - 会社再建。
1948年 - 最高裁から独占禁止法に触れるとする判決を受ける。
1949年 - 前年の最高裁判決を受けて興行部門を分離する。
1957年 - 1948年以前の大部分のトーキー作品の版権(『我輩はカモである』、『誰が為に鐘は鳴る』、『失われた週末』等)をEMKA