東欧系ユダヤ人としてハンガリーで生まれたアドルフ・ズコールは移民労働者からハリウッドのタイクーンになった人物である[4]。
彼は若くして新大陸に渡り、モップ拭きからスタートして毛皮商として成功し、そして後に劇場王となる同業者の親友、マーカス・ロウ[注 1]に触発され、ボードビル会社を設立[注 2]。次いでニッケルオデオン興行から映画配給、映画製作へと進出した。
1912年、製作プロダクションの乱立で作品の質の低下に行き詰まりを感じたズコールは、1906年頃にフランスに起こった、文学や戯曲の名作を当時の人気舞台俳優たちに演じさせて映画を作る芸術映画運動(フィルム・ダール)[注 3]に注目して、フランスに行き、当時舞台での大女優サラ・ベルナールを口説き落として全財産を注ぎ込んで製作したのがサイレント映画の大作「エリザベス女王」で、これをアメリカに逆輸入して大ヒットさせた。ズコールはこれに力を得て同年映画スタジオを設立、「・・有名な戯曲を有名な俳優によって映画に・・」(あるいは「・・名優を名作で・・」[6])をキャッチフレーズにフェーマス・プレーヤーズと名付けた[7]。
この時ボードビリアンのジェシー・ラスキー、手袋商のサミュエル・ゴールドフィッシュ[注 4](後にゴールドウィンと改名)、当時脚本家で後に大プロデューサーとなるセシル・B・デミルらと組んで、翌1913年にハリウッド初の長編映画「スクォー・マン」を製作する[8]。
さらには、D・W・グリフィスが『國民の創生』(1915年)、『イントレランス』(1916年)を次々発表。ズーカーの経営手腕は凄まじいもので、人気スターの出演作を次々購入・製作し、市場を奪われた興業者たちの間では「ズコールを止めろ!」が合言葉になる程であった。20年半ばでの収益はフォックスの2倍、ユニバーサルの3倍、ワーナーの5倍に及んだ[4]。やがて、ズコールとラスキーはそれぞれの会社と新興の配給会社パラマウントを併合して、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキー・スタジオとなり、それが今日のパラマウント・ピクチャーズとなった。
オープニングロゴパラマウントスタジオが75周年を迎えた際、画家のDario Campanile(写真右)によって、ロゴが手直しされた。この原画はパラマウントスタジオに展示されている。
ピラミッド型の特徴的なパラマウント山は、創業以来、同社のプロダクションロゴの主役であり、現存するハリウッド映画のロゴとしては最も古いものである。サウンド時代には、このロゴに、1930年に公開された同名の映画にちなんで「パラマウント・オン・パレード」というファンファーレを付けていた。このファンファーレの歌詞は、もともと1930年の映画で歌われたもので、"Proud of the crowd that will never be loud, it's Paramount on Parade. "というものである。
伝説によると、この山はウィリアム・ホドキンソン(en:William Wadsworth Hodkinson
)がアドルフ・ズコールと打ち合わせをした際に作った落書きが元になっているという。これは、彼が幼少期に過ごしたユタ州での思い出が元になっていると言われている。ユタ州のベン・ローモンドがホッドキンソンの落書きした山で、ペルーのアルテソンラジュが実写のロゴの山だとする説や、イタリア側のモンヴィーゾがこのロゴのモチーフになったとする説もある。ロゴの版によっては、ワサッチ山脈のもう一つの山であるファイファーホルンや、スイスとイタリアの国境にあるマッターホルンに酷似しているものもある。また、アラスカのハンティントン山にも酷似している。映画ロゴは、長年にわたって多くの変化を遂げてきた。
このロゴは、木炭で描かれた山に星を重ねた、やや不鮮明なものから始まった。これは、パラマウントが当時24人のスターと契約していたことから、当時の俳優の契約制度にちなんだものであった。
1951年、このロゴはヤン・ドメラの手によるマットペインティングとしてリデザインされた。
1953年には、3Dで製作されたパラマウント映画のために、より新しく、よりリアルなロゴがデビューした。1954年初めから半ばにかけて、ワイドスクリーン・プロセスのビスタビジョンで製作されたパラマウント作品用に作り直されたものである。