パラマウント・ピクチャーズ
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これが筆頭会社の名をとって「パラマウント訴訟」[注 9]と今日では呼ばれているものである。

訴訟は第1次と第2次の訴訟で裁判が長引き、地裁、高裁を経て最高裁が差し戻し、1948年に地裁で独占禁止法に触れるとする判決が出されて、まずRKOが同年11月、パラマウントは1949年3月に判決に同意した[注 10]結果、この判決のため、各社とも自社で抑えていた劇場網である映画館を手放さざるを得なくなった[10]。これによってメジャー各社は最大の収益源であった劇場を手放すことになり、興行側が自由に競争できるフリー・ブッキング制に移り、またテレビの登場で観客数の減少傾向になったことで、映画会社は余裕があった時代には製作できた「B級映画」を削減せざるを得なくなり、1本の作品にかける大作主義をとるようになった。それは当然製作本数の激減を生み、監督やスタッフ、俳優の需要が減り、やがて1960年代後半から1970年代半ばにかけて映画製作の本拠地であったハリウッドのスタジオが閑古鳥に泣く事態となり、ハリウッドが生まれてから続いた「スタジオシステム」を崩壊させて、映画の都ハリウッドの変貌をもたらすことになった。
次世代DVDへの対応

HD DVDBlu-ray Disc(以下“Blu-ray”)がDVDの後継フォーマットを巡って争った、いわゆる当時の「次世代ディスク(次世代DVD)戦争」では、パラマウントは、当初HD DVDのみを支持していた[注 11]が、Blu-rayの生産コストがDVDとほとんど変わらなくなったことを受け、2005年10月には、ワーナー・ブラザース(以下“ワーナー”)と共に両フォーマットを支持する方針に転換して、Blu-ray版ソフトのリリースを開始。その結果もあり、フォーマット争いはBlu-ray有利で進んでいた。

2007年8月20日、パラマウントは突如として再びHD DVD版のみをリリースする方針に転換する事を発表、発売を控えていた複数のBlu-rayタイトルが発売中止。既発売のBlu-ray版ソフトも出荷が停止された[注 12]。俗に“パラマウントショック”などと呼ばれた本件に対して、当時パラマウントのヒット作である『トランスフォーマー』の監督・マイケル・ベイなどを筆頭とした各クリエーターや識者は、パラマウントの方針を強く非難した。[注 13]また、規格争い終結後、ドリームワークスのCEOが、「皆さんがご存知のように、我々はHD DVDのみを独占的にサポートすることで多額の補償を受けていた」と、ロイターの取材で公言している。[12]

その後、2008年1月4日に、ワーナーがソフトリリースをBlu-rayに限定すると発表したことで、HD DVD市場が急速に終息化、2月19日には、東芝がHD DVD事業を全て終了すると発表。パラマウントも、2月21日にBlu-ray Discに再参入することを発表し[注 14]、“ パラマウントショック ”から始まった迷走は、終焉を迎えた。

日本市場でもパラマウント本社の意向を受ける形で日本法人が動いた事もあり、概ね同じ経緯でHD DVD/Blu-ray版ダブルリリース → 既発売Blu-ray版ソフトのリリース停止 → HD DVD版生産終了 → Blu-ray版ソフトリリース復活、という流れになった。2008年7月25日には、BOXを含む6タイトル、8作品のBlu-ray版ソフトが再リリースされ、HD DVDのみで発売されていたタイトルも相次いでBlu-ray化された。
日本法人

パラマウント・ジャパン合同会社
Paramount Japan G.K.
種類合同会社
本社所在地 日本
105-6006
東京都港区虎ノ門4-3-1
城山トラストタワー 6階
設立1984年(昭和59年)1月20日
業種情報・通信業
事業内容ビデオソフト事業、映画配給、放映権取得・販売
代表者ジョニー・カンハイ(職務執行者)
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戦前に日本法人のパラマウント映画日本支社(パラマウントえいがにほんししゃ、初代)を設立し、「パラマウント映画チェーン」という独自の洋画興行チェーンなどで上映していた。1931年に興行部門を同業他社の松竹の洋画興行部門「松竹座チェーン」と合併して松竹パ社興行社(しょうちくパしゃこうぎょうしゃ)とし、共同で「SPチェーン」を営業していた。1933年に興行を撤退。以降も日本支社は存続して各映画館に配給していたが、1941年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が開戦した為に解散した。

1946年にセントラル映画社の設立によって映画配給を再開、同社が解体された1951年末にパラマウント映画日本支社(2代目)を設立した。1970年、パラマウントとユニバーサルの合弁企業シネマ・インターナショナル・コーポレーション(CIC)の発足に伴い日本支社は解散した[13]。映画配給はCIC(後にユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ、UIP)、ビデオソフト販売はユニバーサル、日本ビクターとの合弁会社として1984年1月20日に設立されたCIC・ビクター ビデオ(シーアイシー・ビクター ビデオ)によって行われた。

2001年にユニバーサルは日本法人ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパンを設立し、ビデオソフト販売をCIC・ビクター ビデオから変更した。翌2002年6月にパラマウントはCIC・ビクター ビデオをパラマウント ホーム エンタテインメント ジャパンと改称してホーム・エンタテインメント事業を行った。

2005年にUIPの世界的な事業再編が発表されると2007年5月にユニバーサル作品の東宝東和での配給が決まり、同年9月にパラマウント ホーム エンタテインメント ジャパンはパラマウント ジャパンに改称し、新たに設けられた映画配給部門でパラマウント作品の映画配給を開始した。

2012年10月、社名をパラマウント・ジャパン合同会社に変更した。

2015年10月8日、東宝東和と劇場配給契約を締結[14]。これまでの自社配給に代わって翌2016年2月1日から東宝東和の新子会社・東和ピクチャーズがパラマウント作品の劇場配給を行うことを発表、映像ソフト販売も同年1月1日からNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンに移管した(ただし、パラマウント・ジャパン合同会社は継続[15])。

長年パラマウント・ピクチャーズ ブルーレイ&DVD公式サイトで採用され続けてきた「Viacom」(2代目)及び「ViacomCBS」のバイラインは2022年4月に全面的に廃止し、東和ピクチャーズ オフィシャルサイトで使用し続けてきた「ViacomCBS」のバイラインも、同年4月に廃止した。
歴史

不明 - パラマウント映画日本支社(初代)設立。

1941年(昭和16年)末 - 1942年(昭和17年) - 日本支社(初代)解散。

1951年(昭和26年)末 - 1952年(昭和27年) - パラマウント映画日本支社(2代目)を設立。

1970年(昭和45年)6月 - 日本支社(2代目)解散。ユニバーサル映画と合弁でシネマ・インターナショナル・コーポレーション発足[13]

1984年(昭和59年)1月20日 - CIC・ビクター ビデオ株式会社(登記上表記はシーアイシー・ビクタービデオ株式会社)を設立。

2002年(平成14年)6月 - パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン株式会社(PHEJ)に社名変更。パラマウント作品のコンテンツ配給・ビデオソフトの製造、販売に特化。

2004年(平成16年) - 福岡市の遊戯施設運営会社・日本トレイドが福岡県久山町にパラマウント・ムービー・スタジオ・パーク・ジャパンの建設計画を発表。しかし立ち消えとなる[16]

2007年(平成19年)9月1日 - 映画配給部門を設立。社名をパラマウント ジャパン株式会社に再度変更。

2008年(平成20年)1月 - 映画配給を開始。最初の配給作品は『クローバーフィールド/HAKAISHA』。

2009年(平成21年) - 大阪の不動産ファンドがパラマウント・ピクチャーズと共同で吹田市エキスポランド跡地にリゾート施設「パラマウント・リゾート大阪」を構想する計画を発表(但しこの土地は三井不動産[17]が落札した為、計画は白紙となった。)[18][19]

2010年(平成22年)11月13日 - 初の日本映画配給作品『ゴースト もういちど抱きしめたい』が公開。

2012年(平成24年)10月 - 社名をパラマウント・ジャパン合同会社に変更。

2015年(平成27年)

第33回ゴールデングロス賞・全興連特別賞(外国映画部門)を受賞。

8月7日 - 最後の配給作品『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』が公開。


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