パラオ
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総計459km2198位[3]
水面積率極僅か

人口
総計(2020年18,094人(189位[4]
人口密度39.4人/km2

GDP(自国通貨表示)
合計(2013年)2億4,600万[5]アメリカ合衆国ドル

GDP(MER
合計(2013年)2億4,600万[5]ドル(185位
1人あたりxxxドル

GDP(PPP
合計(2013年)2億6,300万[5]ドル(185位
1人あたり15,005ドル

独立
国連信託統治アメリカ合衆国)より1994年10月1日

通貨アメリカ合衆国ドルUSD
時間帯UTC+9 (DST:なし)
ISO 3166-1PW / PLW
ccTLD.pw
国際電話番号680

パラオ共和国(パラオきょうわこく、パラオ語: Beluu ?r a Belau、: Republic of Palau、通称パラオは、太平洋に位置し、フィリピンの東方にあるミクロネシア地域の島々からなる共和制国家。首都はマルキョク2006年10月7日にコロールから遷都した。
国名

正式名称はパラオ語で Beluu er a Belau。公式の英語表記は、Republic of Palau。通称、Palau。日本語表記は「パラオ共和国」。漢字表記では「帛琉」と書き「帛」と略す。現地ではペラウと呼ぶこともある。国名の由来は、マレー語で「島」を意味する「Pulau」である[6][7]
国旗「パラオの国旗」も参照

国旗のデザインは海を表す青地に月を表す黄色い丸が配置されている。日本の国旗である日の丸が元となっている説もあるが、パラオの国旗の発案者のジョン・ブラウ・スキーボング(John Blau Skebong)は「私はもちろん日の丸を知っているが、特別にそれを意識してデザインしたわけではない」と否定している[8]
歴史
有史以前.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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有史以前のパラオについては未解明の状況であるが、国内に多く残る遺跡などを研究した結果、約4000年前から人が住んでいたと推定されている。
スペインの植民地

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16世紀ごろから、海運の進歩の結果、ミクロネシア諸島にヨーロッパ人が訪れるようになる。スペイン人が初めてこの地を踏み、次いでポルトガル人イギリス人がやってきたとされる。パラオは1885年スペイン領東インド(Indias Orientales Espanolas)の一部になった。これらのヨーロッパ人により天然痘が流入した。このことと、彼らの現地人に対する搾取が原因で、パラオの人口は90%程度減少したとされる。
ドイツの植民地

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1899年、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、ドイツ・スペイン条約によって、グアムを除くスペイン領東インドを450万ドルでドイツ帝国に売却した。パラオもこれに含まれ、これ以降ドイツ領ニューギニア(Deutsch-Neuguinea)の一部となった。

ドイツはパラオでココナッツタピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行った[9]。しかし、遠く離れたドイツから送られる人員はほとんどないにもかかわらず、パラオがもたらす富はドイツ人に独占された。貨幣経済の一般市民への浸透もままならず、それどころか他のドイツの植民地と同様に道路や水道などのインフラ整備や、現地人への初等教育すらほとんど行われなかった[10]。実際に、スペインや日本時代の遺構や遺跡は数多く残されているものの、ドイツ時代の遺構や遺跡などはほとんど残されていない。

1914年第一次世界大戦が開始されると、当時締結されていた日英同盟により、イギリスフランスなどと同じ連合国の一員として、ドイツに対して宣戦を布告した日本海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領した。
日本の委任統治日本の委任統治領当時のコロール

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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