パラオ
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国名の由来は、マレー語で「島」を意味する「Pulau」である[6][7]
国旗「パラオの国旗」も参照

国旗のデザインは海を表す青地に月を表す黄色い丸が配置されている。日本の国旗である日の丸が元となっている説もあるが、パラオの国旗の発案者のジョン・ブラウ・スキーボング(John Blau Skebong)は「私はもちろん日の丸を知っているが、特別にそれを意識してデザインしたわけではない」と否定している[8]
歴史
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有史以前のパラオについては未解明の状況であるが、国内に多く残る遺跡などを研究した結果、約4000年前から人が住んでいたと推定されている。
スペインの植民地

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16世紀ごろから、海運の進歩の結果、ミクロネシア諸島にヨーロッパ人が訪れるようになる。スペイン人が初めてこの地を踏み、次いでポルトガル人イギリス人がやってきたとされる。パラオは1885年スペイン領東インド(Indias Orientales Espanolas)の一部になった。これらのヨーロッパ人により天然痘が流入した。このことと、彼らの現地人に対する搾取が原因で、パラオの人口は90%程度減少したとされる。
ドイツの植民地

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1899年、国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、ドイツ・スペイン条約によって、グアムを除くスペイン領東インドを450万ドルでドイツ帝国に売却した。パラオもこれに含まれ、これ以降ドイツ領ニューギニア(Deutsch-Neuguinea)の一部となった。

ドイツはパラオでココナッツタピオカ栽培、アンガウルにおけるリン鉱石採掘などの産業振興を行った[9]。しかし、遠く離れたドイツから送られる人員はほとんどないにもかかわらず、パラオがもたらす富はドイツ人に独占された。貨幣経済の一般市民への浸透もままならず、それどころか他のドイツの植民地と同様に道路や水道などのインフラ整備や、現地人への初等教育すらほとんど行われなかった[10]。実際に、スペインや日本時代の遺構や遺跡は数多く残されているものの、ドイツ時代の遺構や遺跡などはほとんど残されていない。

1914年第一次世界大戦が開始されると、当時締結されていた日英同盟により、イギリスフランスなどと同じ連合国の一員として、ドイツに対して宣戦を布告した日本海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領した。
日本の委任統治日本の委任統治領当時のコロール

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1919年、第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になった[11]。コロールには南洋庁および南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島の中核的な島となり、多くの日本人が移住した。パラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人となった。軍人を除く1943年6月末時点の居住者33,960人の内訳は、内地人(内地出身日本人)25,026人、朝鮮人(朝鮮半島出身日本人)2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人。

日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった電気水道学校病院、道路や公的施設など社会的基盤の整備、貨幣経済への移行が重点的に行われた。これにより1920年代ごろになるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させた。元駐日大使ミノル・ウエキによれば、日本はパラオでは積極的な日本化をおこなわず、教育や医療、経済といった、社会基盤の整備に努めた[12]

また、日本統治の開始に伴い日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになった。ただし、本科3年・補習科2年の課程であり、日本人子弟とは学校が別だった(公学校)。現地用の教科書編纂のため、南洋庁の書記として赴任していた中島敦(帰国後に専業作家となる)は個人的感想として、原始的に暮らしている現地住民に近代的な高等教育を施すことへの疑問の手紙を家族に送っているが[13]、基礎的な日本語がわからないうちに日本歴史、地理、理科などを教えるのは島民児童や教員への負担が大きく困難だとして、民政時代には3科目を省くなどパラオの実態を考え、変更を重ねた[9]アンガウル島沖での海戦

日本は1933年(昭和8年)に国際連盟から脱退したが、統治委任はパリ講和会議によるものであることから、国際連盟の加盟諸国も日本による統治の継続を認めたために委任統治を続けた。なお、国際連盟からの脱退により、国際連盟の「委任統治領に軍事施設を建設してはならない」という規則の制約から逃れた日本は、各地に海軍の関連施設を建設した。

民間の大日本航空が設立されると、1940年(昭和15年)3月6日、海外路線として横浜 - サイパン - パラオの間に九七式飛行艇を使用した民間航空路が開設された[14]。更に1941年(昭和16年)1月9日からはパラオを起点として南洋島内を結ぶ空路が開設された[15]ほか、同年10月以降にはパラオと東ティモール(当時ポルトガル領)間に空路が開設された[16]


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