パラオ
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1919年、第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になった[11]。コロールには南洋庁および南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島の中核的な島となり、多くの日本人が移住した。パラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人となった。軍人を除く1943年6月末時点の居住者33,960人の内訳は、内地人(内地出身日本人)25,026人、朝鮮人(朝鮮半島出身日本人)2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人。

日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった電気水道学校病院、道路や公的施設など社会的基盤の整備、貨幣経済への移行が重点的に行われた。これにより1920年代ごろになるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させた。元駐日大使ミノル・ウエキによれば、日本はパラオでは積極的な日本化をおこなわず、教育や医療、経済といった、社会基盤の整備に努めた[12]

また、日本統治の開始に伴い日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになった。ただし、本科3年・補習科2年の課程であり、日本人子弟とは学校が別だった(公学校)。現地用の教科書編纂のため、南洋庁の書記として赴任していた中島敦(帰国後に専業作家となる)は個人的感想として、原始的に暮らしている現地住民に近代的な高等教育を施すことへの疑問の手紙を家族に送っているが[13]、基礎的な日本語がわからないうちに日本歴史、地理、理科などを教えるのは島民児童や教員への負担が大きく困難だとして、民政時代には3科目を省くなどパラオの実態を考え、変更を重ねた[9]アンガウル島沖での海戦

日本は1933年(昭和8年)に国際連盟から脱退したが、統治委任はパリ講和会議によるものであることから、国際連盟の加盟諸国も日本による統治の継続を認めたために委任統治を続けた。なお、国際連盟からの脱退により、国際連盟の「委任統治領に軍事施設を建設してはならない」という規則の制約から逃れた日本は、各地に海軍の関連施設を建設した。

民間の大日本航空が設立されると、1940年(昭和15年)3月6日、海外路線として横浜 - サイパン - パラオの間に九七式飛行艇を使用した民間航空路が開設された[14]。更に1941年(昭和16年)1月9日からはパラオを起点として南洋島内を結ぶ空路が開設された[15]ほか、同年10月以降にはパラオと東ティモール(当時ポルトガル領)間に空路が開設された[16]

第二次世界大戦太平洋戦争)が始まると、コロールは海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となった。そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動して連合軍の攻撃対象となり、1944年(昭和19年)にはペリリューの戦いなどで両軍に多くの戦死者を出した。なお、ペリリュー島の戦いではパラオ民間人の死者はなかった[17]。しかし、日本国籍を持たない現地人であっても、本人の事前の了承を受けてパラオ挺身隊などに軍属として動員されることがあった[注釈 1]

1945年(昭和20年)8月の連合国に対するポツダム宣言受諾に伴う日本の降伏により、日本の統治が終了したものの、現在でも非常に親日的でかつ多くの日本人観光客が訪れている上、アメリカからの援助額を超え、日本から最も多くの経済援助を受けている(2017年)[18][注釈 2]
アメリカの信託統治太平洋諸島信託統治領パラオ地区議会(1971年)

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戦争終結後の1947年に、アメリカが施政権者である太平洋諸島信託統治領の一部となった。アメリカはミクロネシア地域には動物園政策をとり、教育や福祉健康には援助を行ったが、日本とは違い産業開発にはほとんど投資を行わなかった[10]

アメリカ統治の開始にともない、今度はアメリカ英語による教育が住民に対して行われるようになった。パラオ住民は一部かつ英語によるものではあるものの、引き続き高等教育も受けることが出来るようになった反面、上記のように日本と違い産業開発は行われず、経済はアメリカの援助に依存し、パラオ人は農業などの肉体労働に就くのを嫌がるようになり、かつてアメリカの植民地支配下にあったフィリピンからの出稼ぎ労働者が担うようになった。

食料がアメリカによって豊富に供給されたことにより、蛋白源が伝統的な魚介類から輸入肉製品中心となり、肥満の問題も発生している。また、高等教育を受けた若者は、アメリカの教育の影響を受けて統治国のアメリカやグアムでの就職を希望する者が多く、パラオの人口動態は流動的なものとなって把握が難しくなった。アメリカによる教育の「成果」は、後述するパラオ憲法の非核条項をめぐるコンパクトの国民投票において、アメリカ側の軍事的利益に反する結果をたびたび出したことにも現れている。
独立への動き

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1979年7月には、アメリカによる核兵器の持ち込みを禁止した「非核憲法」を住民投票で可決したが、アメリカの意向を受けた信託統治領高等裁判所が無効を宣言した。10月、非核条項を緩和した憲法草案で再び住民投票を行ったが、今度は否決された。しかし1980年7月に、1年前と同じ内容(修正前)の草案での住民投票で可決された。

1981年に、自治政府の「パラオ共和国」を発足させ、憲法を発布した。翌1982年に、内政・外交権はパラオが、安全保障はアメリカ合衆国が担うものとし、アメリカ軍が駐留することになった。その見返りとしてアメリカが財政援助をする自由連合盟約(コンパクト)の内容に関して両政府が合意した。だが翌年行われた住民投票でコンパクトは否決され、これ以降、1990年まで都合7回の住民投票が行われたが全て否決された。
独立

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1990年代初頭の冷戦終結を受けて、アメリカにとってパラオの利用価値がなくなった後の1992年に行われた住民投票で、憲法内の非核条項をアメリカとの自由連合協定においてのみ凍結することが決まり、コンパクト承認のための住民投票の可決条件を緩和(75%から50%へ)する憲法改正のための住民投票が行われ、これが可決された。また、同時に行われた大統領選挙でクニオ・ナカムラが当選した。

1993年には、緩和された可決条件の下、8回目の住民投票でアメリカ合衆国とのコンパクトが承認された。これにより、1994年10月1日に、コンパクトによる自由連合盟約国として独立し、国連による信託統治が終了した。同年に国際連合へも加盟した。信託統治領としては最後の独立となる。

現在でもパラオ国会では日系の政治家が強い影響力を持つなど、日本と歴史的に密接な繋がりを持つ国である。
地理パラオの地図パラオの地図 (2)ロックアイランド

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パラオを構成する島は386であるが、実際に人が住んでいる島は9つのみである[19]。首都マルキョクやロマン・トメトゥチェル国際空港のあるバベルダオブ島と旧首都のあるコロール島とは橋で結ばれている。コロール島ペリリュー島の間にあるロックアイランドは、2012年7月に世界遺産に登録された。


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