トランペットの合図と共に戦いは始まり、アンティゴノス軍左翼のペイトンは敵の戦象部隊と正面きって戦うのは得策ではないと考え、側面を迂回して攻撃を加えた。右翼の劣勢を受け、エウメネスは左翼のエウダモス隊を救援に向わせ、エウダモスはペイトンを敗走させ、追撃を加えた。中央では銀楯隊の活躍によってエウメネス軍が優位に立っていた。このようにエウメネス軍の右翼と中央はアンティゴノス軍を圧倒したが、右翼と中央の前進によって生じた左翼との隙間にアンティゴノスは自ら突撃を仕掛け、エウメネス軍左翼を押し返した。それと平行してアンティゴノスは敗走していた歩兵部隊を呼び集め、戦列を形成させた。これを受け、エウメネスは右翼と中央に敵の追撃を止めさせ、左翼の救援に向かうために引き下がった[9]。
双方は再び戦おうとしたが、夜になったため、互いの陣営へと戻った。この戦いでアンティゴノス軍のうち歩兵3700人と騎兵54騎が戦死し、4000人以上が負傷した。一方エウメネス軍は歩兵540人とわずかな騎兵が戦死し、負傷者は900人以上であった[10]。 アンティゴノスは夜明けに陣を畳み、兵士に補給をさせるためにまだ略奪されていないメディア
結果
註^ ディオドロス, XVIII. 36-39
^ ibid, XVIII. 48, 57-62
^ ibid, XIX. 27-29
^ ibid, XIX. 28
^ 市川も述べているようにディオドロスの記述では戦象が125頭になる上、騎兵が150騎足りず、28節で挙げられている数字とは計算が合わない。さらに、軽装歩兵の数は不明であるし、総数の35000から中央に配置された17000を引いたら18000もの兵力ということになる。
^ ディオドロス, XIX. 27
^ ibid, XIX. 29
^ アンティゴノス軍の兵力もまた27節の数字とは計算が合わず、以上の戦力配置から計算すると歩兵28000、騎兵10600、戦象65頭となるが、騎兵は最初に挙げた兵力での8500から2100も上回っているし、恐らくいたであろう軽装歩兵の兵力は不明確である。
^ ibid, XIX. 30
^ ibid, XIX. 31
^ ibid, XIX. 32
参考文献
市川定春、『古代ギリシア人の戦争 会戦辞典 800BC-200BC』、新紀元社、2003年
⇒ディオドロスの『歴史叢書』の英訳