パム・グリア
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」と付け加えた[3]。父親がアメリカ空軍に属していたため、子供時代はイングランドなど様々な場所に引っ越した。その後コロラド州デンバーのイースト高校に通った。デンバーでは舞台に出演したり、ミス・コンテストに参加してデンバー大都市圏州立大学(英語版)の学費を稼いだ。大学在学中にも、デートレイプの被害に遭う[4]
経歴

1967年にロサンゼルスにうつり、アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ(AIP)に交換手として雇われる[2]。その時に映画監督のジャック・ヒル(英語版)に見出され、女囚映画『残酷女刑務所(英語版)』(1971年)や『残虐全裸女収容所(英語版)』(1972年)に起用された。AIPとの契約期間、1970年代初頭のブラックスプロイテーション映画の常連となり、傲慢、大胆、独断的な女性を演じた。嚆矢となったジャック・ヒルの『コフィー』(1973年)では、妹の復讐のために麻薬組織に潜入し、色仕掛けで男達を次々と倒してゆく看護師を演じた。彼女のキャラクターは「町を襲った、かつてない最悪の女殺し屋」と予告編で宣伝された。このジャンルに典型的な性的・暴力的要素で満たされた本作は大ヒットした。それまでのブラックスプロイテーション映画の主人公は男性だったので、グリアはアクション映画で主演した最初のアフリカ系アメリカ人女性であると見なされている。評論家のロジャー・イーバートはレビューで、その信じがたい主演女優に由り『コフィー』を賞賛した。グリアは「美しい顔と驚くべき姿態」の女優であり、彼女は他の多くの魅力的な女優に欠けている一種の「肉体的活力」を有していると書いた[5]

その後もAPIの『フォクシー・ブラウン(英語版)』(1974年)、『SHEBA, BABY』(1975年)、『女記者フライデー/謎の暗殺計画(英語版)』(1975年)で同様のキャラクターを演じた。1970年代の後半にブラックスプロイテーションが下火になると、端役しか回ってこない時期が続いた。1980年代になると、『アパッチ砦・ブロンクス』(1981年)の麻薬中毒の売春婦や『何かが道をやってくる(英語版)』(1983年)の魔女など、次第に大きな役が回ってくるようになった。

1985年、ロサンゼルス・シアターセンター(英語版)のサム・シェパードの『フール・フォア・ラブ(英語版)』で初舞台を踏んだ[6]2013年ウィザード・ワールド・ニューヨーク・エクスペリエンス(英語版)のQ&Aコーナーにて司会のジャレット・クリッペンと

1988年、『刑事ニコ/法の死角』でスティーヴン・セガールの相棒の女刑事役で映画界に復帰した。1985年から1989年までテレビドラマ『特捜刑事マイアミ・バイス』に同じ役で複数回出演し、『Martin』、『Night Court』、『ベルエアのフレッシュ・プリンス(英語版)』にゲスト出演。1986年から1988年にかけてポリスドラマ『クライム・ストーリー』に準レギュラー出演した。『ジブラルタル号の出帆(たびだち)(英語版)』(1988年)の彼女の出演シーンは「異人種間のラブシーンへの反発」を危惧したダニエル・ペトリー(英語版)監督によりカットされた[7]。『The Sinbad Show』、『コスビー・ショー』、『The Wayans Bros.』、『マッドTV!』などテレビ出演も続けた。1994年、スヌープ・ドッグの「Doggy Dogg World」のミュージックビデオに出演した。

1990年代後半、Showtimeのドラマ『Linc's』にメインキャストでレギュラー出演した。1996年にジョン・カーペンターの『エスケープ・フロム・L.A.』、同年ティム・バートンの『マーズ・アタック!』、1997年にはクエンティン・タランティーノの1970年代のブラックスプロイテーションへのオマージュでもある『ジャッキー・ブラウン』にタイトルロールで出演した。タランティーノの映画での演技によって多数の映画賞にノミネートされた。Showtimeのドラマ『Lの世界』にキット・ポーターとしてレギュラー出演。このドラマは6シーズン続き、2009年3月に終了した。『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』などのように同じ役で繰り返しゲスト出演することが多い。2010年、ヒットSFドラマ『ヤング・スーパーマン』で悪役である秘密作戦機関チェックメイトのヘッド、アマンダ・ウォーラー(別名: ホワイト・クイーン)として複数回登場した。2011年、『幸せの教室』にジュリア・ロバーツ演じる大学教授の友人・同僚として出演。

2010年、回想録『Foxy: My Life in Three Acts』をアンドレア・ケイガンと協力して書いた[8]

2011年、メリーランド大学イースタン・ショア校(英語版)から名誉博士号を授与された。同年、ラングストン大学(英語版)から名誉科学博士号を取得した[9]

彼女は国立多文化西部遺産博物館(英語版)とともにパム・グリア・コミュニティー・ガーデン・アンド・エデュケーションセンターを設立した。目的は有機栽培、健康、栄養などについて人々を啓蒙することである[10]。2011年、博物館は最初の庭園に記念としてグリアの名前を付けた.[11]

2018年1月、グリアは彼女の回想録に基づく伝記映画が制作中であると公表した[4]
私生活
恋愛遍歴

グリアには婚姻歴がないが、有名な交際がいくつかあった。

ムスリムになる前のプロバスケットボール選手ルー・アルシンダーと出会い、交際を始めた直後に彼はイスラム教に改宗し、名前をカリーム・アブドゥル=ジャバーに改めた。アブドゥル=ジャバーはグリアにプロポーズしたが、同時にイスラム教への改宗を条件に付け加えた[12]。彼は「今日私と婚約しないと、私は今日の午後2時に結婚することになる。彼女は改宗したイスラム教徒であり、私のために用意されている」と言い、「あなたがイスラム教徒になるのなら、別の妻として認められるかも知れない。」と結んだ。グリアが辞退したので彼はその日の内に結婚した[13][14]

1973年、自身の主演映画『コフィー』のプロモーション中に、コメディアンのフレディ・プリンゼ(英語版)と出会う。彼らは交際を始め、結婚も視野に入れた[13][14][15]。プリンゼは彼女に子供を産んでほしかったが、グリアは彼のうつ病と薬物中毒の履歴のために気が進まなかった[8][16]。彼女が彼の下を去った後も2人は連絡を取り続けた。彼女は1977年にプリンゼが自らを撃って致命傷を与える前に、最後に話した人物の1人であった[4]

プリンゼとの交際を通じてコメディアンのリチャード・プライヤーと出会ったが、2人が揃って『Greased Lightning』にキャスティングされるまで交際は始まらなかった[13]。彼女はプライヤーが読み方を学ぶことを手助けし、薬物中毒から救い出そうとしていた[4][8]。半年間に亘り薬物を断った後、彼は再発した[13]。回想録で、グリアはプライヤーとの性行為によりコカインが彼女の体内器官に入り込んだと説明した。診察により、彼女は自分の子宮頸部の周りに「コカイン残留物の蓄積」があり、医師からこれはビバリーヒルズで「流行病」と呼ばれるものだと知らされた。医師はプライヤーが勃起を持続するために陰茎にコカインを塗布したか彼女に尋ねた。彼女は確信が持てなかった[17]。そしてプライヤーにフェラチオをしている時に口内が麻痺しなかったか尋ね、彼女はそうなったと答えた。医師はそれをコカインの局所麻酔的効果に結び付けた。グリアはプライヤーに彼女の健康を守るよう求めたが、彼はコンドームの使用を拒否した[16]。プライヤーはグリアとの交際中の1977年に別の女性と結婚した[18]


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