パニック!アット・ザ・ディスコ
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その後、パロ・ヴェルデ高校に通うブレント・ウィルソンとブレンドン・ユーリーが加入[24]。バンド名はネイム・テイクンが同年に発表した楽曲「Panic」の歌詞に由来する[25]

間もなくして4人はスミスの祖母の家のリビングでリハーサルを行なう[26]。当時はロスがバンドのリード・ボーカルを務めていて、ユーリーはギタリストとして加入したが、ユーリーの方が歌が上手いということからユーリーがリード・ボーカルを務めることとなった[27]。結成からしばらくはブリンク 182コピーバンドとして活動[10]

バンドの新しい練習場所を借りるための資金を得るために、ユーリーはトロピカル・スムージー・カフェで働き始めた[28]。メンバー4人は勉学よりも音楽に集中するようになり、中でもロスは大学を中退したことで父親と不仲となった[26]

ロスとユーリーは、LiveJournalを通じてフォール・アウト・ボーイのベーシストであるピート・ウェンツにデモ音源を送った[29]。当時フォール・アウト・ボーイのメンバーとしてロサンゼルスでメジャー・デビュー・アルバム『フロム・アンダー・ザ・コーク・ツリー』の制作を行なっていたウェンツは、4人と会うために車でラスベガスに向かった[29]。バンドの演奏を「2?3曲」聴いたウェンツは感動し、すぐに自身が立ち上げたディケイダンス・レコード(当時はフュエルド・バイ・ラーメンの傘下レーベル)の第1弾アーティストとして売り出すためにバンドに契約を求めた[29]。2004年12月、バンドはレーベルと契約[27]。当時バンドはライブを開催したことがなく、ウェンツがそのようなバンドと契約したことがニュースとして報じられると、インターネット上のファンはバンドを強く非難し始めた。2006年にインタビューでロスは「ほぼすぐに何が起こったのかがわかった」「僕らはオンライン上で2曲公開していて、人々はもう僕らがどういうサウンドを演奏するバンドなのか憶測を立てていた」と語っている[30]

その一方で、ウェンツはステージ上で「Pete! at the Disco」と記されたTシャツを着たり、「2005 MTV Video Music Awards」の前日に行なわれたプレス・ジャンケットをはじめとしたインタビューでバンドについて言及するなどバンドの広報活動を始めた[30]。レーベルとの契約当時、ネバダ大学ラスベガス校を中退したロスを除くメンバー3人は高校生だった。デビュー作のレコーディングは6月に延期となり、それまでにユーリーが高校を卒業し、ウィルソンとスミスの2人が通信教育課程を修了した[24]
デビュー後の4人組バンドとしての活動カリフォルニアで行なわれたイベントでのパニック!アット・ザ・ディスコ(2006年)

2005年春、バンドはメリーランド州に移り、同年6月からデビュー・アルバムのレコーディングを開始[24]。メリーランド州に到着した時点で曲は未完成であったが、長時間に及ぶセッションを通して形づくられた[24]。プロデュースはマット・スクワイアが手がけ[31]、11,000ドルの予算でミキシングマスタリングも含めて3週間半で制作が行なわれた[32]。ロスによれば、アルバムの完成後は「家に帰って、バンドがどうあるべきかを考えるために2週間を使った」という[32]

9月27日、スタジオ・アルバム『フィーバーは止まらない』とシングル『殉死と自殺の差は記事になるかならないか』の同時発売でデビュー[33][34]。同作はBillboard 200で初登場112位に記録し、翌年の同チャートで最高位13位を記録した[35]


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