正式名称は、Republica de Panama(スペイン語: [re?puβlika de pana?ma]
レプブリカ・デ・パナマ)。通称は Panama。公式の英語名は Republic of Panama ([r??p?bl?k ?v ?pan?m??] リパブリク・ァヴ・パナマー)。通称は Panama。
日本語での公式名称はパナマ共和国。通称、パナマ。漢字表記は、巴奈馬など。
国名の由来はインディオ(インディヘナ)のクエバ人の言葉で、「魚が豊富」を意味する言葉から来ているとされている。 ヨーロッパ人の来航以前の現在のパナマの地には、主にチブチャ族
歴史詳細は「パナマの歴史」を参照
先コロンブス期
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}紀元前2900年から同1300年に刻線文が特徴のモナグリーヨ (Monagrillo) 土器を用いた人々が、主にパナマ中央部、アスエロ半島北方のパリタ湾岸に貝塚、内陸では岩陰や洞窟で生活を営んでいたことが知られている。紀元前1000年ごろにモナグリーヨ土器を伴う集落がなくなり、紀元前6世紀になると、ムラ・サリグアなどをはじめとする掘立柱建物を住居とした集落が点々と営まれるようになる。ムラ・サリグアの最盛期には、推計で人口は600人から700人近くに達し、集落の面積は58haまで発達した。しかし、紀元前後になっても祭祀センターとまで言える遺跡は確認できていない。[要出典]
3世紀から4世紀ごろの遺跡からは、木の実や穀物をすりつぶすマノ(すり石)とメタテ(すり皿)が発見されていることから、農耕が本格的に開始されていたと推測される。
500年ごろには、パリタ湾岸では金製品で知られるコクレ(Cocle)文化が興る。その起源についてはコロンビアからの影響か、独自の発展か決着をみていない。またコスタリカ東部に隣接する西部では、美術的にも評価の高い彩文土器や土偶で知られるチリキ(Chiriqui)文化が興る。
スペイン人が到来する直前にあたる16世紀初頭には、現在のパナマに相当する地域には20万人から200万人の人間が居住していたとされている[3]。
スペイン植民地時代「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照「南の海」(太平洋)を探索するバスコ・ヌーニェス・デ・バルボア。
1501年、ヨーロッパ人としてはじめてスペインの探検家ロドリーゴ・デ・バスティーダス(スペイン語版、英語版)がパナマを「発見」し、カリブ海側ダリエン湾のポルト・ベーロに上陸した。翌1502年には、クリストファー・コロンブスがモスキートス湾沿岸を探検している。これ以降、自らがインドに到達したと誤解したコロンブスによってパナマに居住していた人々はインディオ(インド人)と呼ばれるようになった。
1508年、カスティーリャ王フェルナンド5世が、パナマをスペインの探検家ディエゴ・デ・ニクエサ(スペイン語版、英語版)に与えた。その後、1513年にバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが太平洋側に到達した(ヨーロッパ人による太平洋の「発見」)。翌1514年には総督としてペドロ・アリアス・ダビラ(スペイン語版、英語版)が派遣され、1519年にはパナマ市が建設された。パナマにも他のアメリカ大陸の植民地と同様にアフリカから黒人奴隷が連行され、インディオは疫病と奴隷労働によって大打撃を受けたが、パナマ市はイスパノアメリカ植民地の交通の要衝、スペイン人の居住都市として1671年1月28日にイギリスの海賊ヘンリー・モーガンによる焼き討ちに遭うまで繁栄を極めた。
1530年代にバルボアの下で植民地経営の経験を積んだフランシスコ・ピサロは、パナマを拠点にインカを征服した。また、ペルー及び近隣植民地からスペイン本国への輸送ルートは、ほとんどがパナマを経由した。例えば、アルト・ペルー(現在のボリビア)のポトシ銀山の銀は海路で太平洋側のパナマ市まで輸送され、陸路でカリブ海側のポルトベロまで輸送、そこから再び海路でスペインまで輸送された。スペインが16世紀初頭にパナマ周辺地域の支配権を確立した後、パナマはペルー副王領の一部となり、1718年に新設されたヌエバ・グラナダ副王領に編入された。
16世紀から17世紀にかけて、フランシス・ドレークやヘンリー・モーガンをはじめとするイギリスの海賊がしばしば輸送拠点を襲撃し、搬送物を略奪した。
スペインからの最初の独立「近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立」も参照解放者シモン・ボリーバル。