古代後期以後のパドヴァ史は、イタリア北東部の多くの都市がそうであったのと同じ過程を辿った。
パドヴァは452年、アッティラが指揮するフン族の侵攻を受けた。次にはゴート族のオドアケル、テオドリックの支配を受けた。しかしゴート戦争の間の540年に、東ローマ帝国へ従属した。パドヴァはその後再度トーティラによって略奪・破壊されるが、568年に東ローマ将軍ナルセスによって帝国領へ復帰した。その後、ロンゴバルド族の支配を受けた。
601年、パドヴァはロンゴバルド王アギルルフ
(英語版)に対し反乱を起こした。12年に及んだ長く血塗られた包囲戦後、アギルルフ王によって略奪され市は焼かれた。古代のパドヴァは消滅してしまった。古代の円形演技場の遺跡と、一部の橋の基礎部分が、ローマ時代から現代まで残っている。パドヴァ市民は丘陵地帯へ逃れ、廃墟の中で細々と暮らすために戻ってきた。年代記によれば、支配階級はラグーナのために市を見捨てた。アギルルフの蛮行からの復興はたやすくなく、ロンゴバルドの次にフランク王国が北イタリアの覇者となっても、パドヴァはかつての栄光の失せた小さな町に過ぎなかった。828年のエクス=ラ=シャペル議会で、パドヴァの含まれるフリウリ地方にある公領と辺境侯領は4つに分割され、その一つがパドヴァ公領となった。
北イタリア都市がカトリック教会主権の下にあった時代、パドヴァは非常に重要とも活発だともみられていなかった。叙任権闘争を通じた政策の一般的な傾向は、皇帝優位であり教会派ではなかった。司教は大半をドイツ人が占めていた。中世最盛期の大事件は、899年に起きたマジャール族のパドヴァ略奪である。パドヴァがこの痛手から立ち直るまで何年もかかった。 表面下で、いくつもの重要な出来事が起きたことは、パドヴァの後世の発展のための形成であることを証明していた。 11世紀初頭、パドヴァ市民は通常議会または立法議会、クレデンツァ(credenza)または執行委員から構成される組織をつくった。 12世紀、市民はバッキリョーネ川とブレンタ川の水運権をめぐってヴェネツィア=ヴィチェンツァと戦争状態となった。これは、同盟者を求めずとも自力で戦えるほどの力をパドヴァが蓄えていたことを意味した。 有力貴族であるカンポザンピエーロ家、エステ家、ダ・ロマーノ家が台頭し始め、パドヴァ地域を分割した。自らの自由を守るためにパドヴァ市民は自分たちでポデスタ
コムーネの非常事態
ロンバルディア同盟の同時代の快進撃が、パドヴァを強化するのを助けた。結果、1236年にパドヴァと周辺都市で、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は自らの専制的な代理人としてエッツェリーノ3世・ダ・ロマーノ(英語版)(彼は住民に対し恐ろしい暴行を日常的に行っていた)を擁立するのに少々困難が伴うことを知った。教皇アレクサンデル4世のため、エッツェリーノは市民の血を流すことなく1256年6月に免職した。
パドヴァは平穏な繁栄の時代を謳歌した。聖人を祀る大聖堂建設が始まった。パドヴァはヴィチェンツァをも支配下においた。パドヴァ大学は1222年に創立され、13世紀に繁栄した。
13世紀のパドヴァの発展が、ヴェローナ領主カングランデ1世・デッラ・スカラ(英語版)との対立を、最終的にもたらした。1311年、パドヴァはヴェローナを譲渡しなければならなかった。
1318年、ヤコポ1世・ダ・カッラーラ(英語版)がパドヴァ領主に選ばれた。1318年から1405年まで、輝かしいカッラーラ家出身の9人がパドヴァ領主となった(1328年から1337年までスカリジェリ家の事実上の支配、そして1388年から1390年までジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティが支配した時期を除く)。カッラーラ家時代は、定期的な戦争のために安息のない長い時代であった。1387年、パドヴァに雇われたジョン・ホークウッドが、ジョヴァンニ・オルデラッフィ(英語版)率いるヴェローナと戦ったカスタニャーロの戦い(英語版)で勝利した。
カッラーラ家時代は、ヴィスコンティ家の強大化と、ヴェネツィア共和国の重要性が増したことでついに終焉を迎えた。 1405年にパドヴァはヴェネツィア共和国に降り、その本土属領(ドミニ・ディ・テッラフェールマ
ヴェネツィア支配
カンブレー同盟戦争時代、1509年に市の支配者が事実上変わった時期がある。1508年10月10日、教皇大使、フランス王国、神聖ローマ帝国、スペイン王国が反ヴェネツィア共和国のカンブレー同盟を締結した。その同意内容は、イタリアにおけるヴェネツィア領の完全な解体、条約調印国の間での分割であった。皇帝マクシミリアン1世はヴェローナとその他領土に加えてパドヴァを受け取ることになった。1509年、帝国軍によってわずか数週間でパドヴァは陥落した。ヴェネツィア軍は素早く奪還し、帝国軍の包囲戦にパドヴァを守り抜くことに成功した。
パドヴァは、文民であるポデスタ(イタリア語版、英語版)と、軍人である隊長を務める2人のヴェネツィア貴族によって統治された。どちらも16ヶ月の任期であった。これらの統治者のもと、大小議会が自治政府の実務を果たし続け、パドヴァ法を施行した。国庫は2人の出納官が管理した。5年ごとに、パドヴァ市民は地元貴族の一人をヴェネツィアへ公使(nuncio、ヌンチオ(英語版))として派遣した。公使となった貴族はヴェネツィアに住み、生まれ故郷の問題を見つめていた。
ヴェネツィアは、パドヴァを新しい城壁で防衛強化した。そこには長く世に残る門の一連があった。トロンコ・マエストロ・リヴィエーラ。水路沿いの歩道ラジオーネ1817年頃描かれたシニョーリ広場 1797年、ヴェネツィア共和国がカンポ・フォルミオ条約で地図上から消されると、パドヴァはオーストリア帝国へ割譲された。1814年にナポレオンが退位すると、市はロンバルド=ヴェネト王国の一部となった。
オーストリア支配