その後、キリスト教神学を学ぶためヨーロッパ大陸へ渡り、ガリア(フランス)のレラン(フランス語版)やオセールの修道院で、修道士としてオセールのゲルマヌス(英語版)らに師事し学んだ[8][9]。
パトリキウスは、自分を奴隷として虐待したアイルランド人らに対する愛と伝道の使命を与えられたと家族らに話したが、反対を受けた[10]。だが結局、ローマ司教チェレスティヌスから布教の命を受け、432年に宣教師・司教として再びアイルランドを訪れる。
ここでパトリキウスは、アイルランドの在来信仰を排斥するのではなく、キリスト教と在来信仰を融和させる形でキリスト教を布教したという。そのため、アイルランドでは以後一人の殉教者も出さず、急速にキリスト教が広まった。そして、アイルランドとスコットランドを中心とするブリテン諸島には、西方教会にありながらローマ・カトリック教会とは様々な点で異なり、初期には土着的特色のある信仰が育まれた[5]。そのことは、太陽信仰の名残とも考えられる、十字架に円環を組み合わせたハイクロスに象徴される[注 3]。
パトリキウスについてはいくつもの伝承が語られており、そのうち最も有名なものは、三つ葉のクローバーに似たシャムロックの葉を手にして「三位一体」の教義を説いたというもので、シャムロックはパトリキウスのシンボル、またアイルランドのシンボルともなっている。これも、在来信仰において「3」という数字が神聖視されていたことや、ケルト神話の「三組神」信仰がベースにあったため、アイルランド人にとって受け入れやすいモチーフであったとも考えられる[12]。
444年、アルスター地方のアーマー(現在はイギリス領北アイルランド南部、アーマー県)に布教活動拠点となる教会を建てたと伝わり[5]、「全アイルランドの首座司教(英語版)」たるアーマー大司教(英語版)[注 4]の初代とされる。
パトリキウスは、キリスト教の伝道のためにアイルランドへ行った最初の人物でも、唯一の人物でもなかったが、本格的なキリスト教の歴史開始の象徴となっている。彼は365の教会を建て、12万人が改宗し、2000人の司祭、200人の司教を叙階したと伝えられている[13][7]。