パトラ
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15世紀?16世紀に、ベネチア共和国とジェノヴァ共和国が何度もパトラを奪ったが、再統治は出来なかった[1]

1571年10月7日、オスマン帝国海軍とキリスト教神聖同盟がパトラ湾でレパントの海戦を行った。オスマンは敗れたが、神聖同盟はパトラを包囲しなかった。オスマン敗戦の報はパトラ市民を喜ばせたが、ゲルマノス1世率いる反乱は鎮圧され、扇動者は処刑された[2]

1687年、ベネチアはモレアス戦争でパトラを奪った。

1715年、オスマンがモレアス王国をオスマン・ベネチア戦争で滅ぼし、パトラを奪った。第一次オスマン統治(1460年?1687年)は悲惨だったが、1715年からの第二次オスマン統治では商業は復活し、18世紀には農業と交易を基盤に繁栄した。
ギリシャ独立戦争パトラ包囲戦におけるアタナシオス・カナカリス(ペーター・フォン・ヘス作)

パトラはギリシャ独立戦争(1821年?1829年)で重要な役割を果たした。パトラは当時ペロポネソス最大の都市で、全アカイアとマニ半島を司る最初の革命首都が置かれた。パトラの人口1.8万人の2/3以上がギリシャ人で、商人や中産階級は少なかった。パトラの商業的重要性から、ヨーロッパ中から領事が来ていた。ロシア領事のヴラソポウロスも友愛会に所属していた。オスマン帝国はテペデレンリ・アリー・パシャとの戦争の軍資金を得る為、パトラに重税を課したが、パトラはこれを拒否した。その為、パトラの雰囲気は1821年2月中旬から緊張し始めた。同時期、友愛会はパトラ反乱を計画し、弾薬や資金、作戦を準備していた。オディッセアス・アンドロウツォスはパトラに隠れ、ヤニス・マクリヤニスは来る反乱の指導者に会う為にパトラを訪れた。これらの動きを怪しんだトルコ人は、2月28日に所有物を要塞に運び込み、3月18日には家族と一緒に要塞に入った。3月23日、トルコ人は市街地に散発的に攻撃を仕掛け、区画を幾つか破壊した。自由戦士パナギオティス・カラツァス率いる革命軍は銃を用いてトルコ人を要塞に押し返した[3]。マクリヤニスは後に回顧録でこう語っている。

Σε δυο ημ?ρε? χτ?πησε ντουφ?κι ’στην Π?τρα. Οι Tο?ρκοι κ?μαν κατ? το κ?στρο και οι Ρωμα?γοι την θ?λασσα.[4]
「パトラでは2日後に銃撃戦が始まった。トゥルク人は要塞を包囲し、ギリシャ人は海岸を確保した。」[5]

3月25日、革命軍はパトラのアギオス・ゲオルギオス広場で革命宣言を行った。この日が独立戦争の公式の開始日になっている。友愛会のゲルマノスはパトラに戻り、自由戦士を祝福した。3月26日、革命軍は各国の領事に革命の理由を書簡で説明した。しかし、ユスフ・パシャ率いる主に騎兵からなる約300人のトゥルク兵は、イオアニアからエウボエアに進路を変更し、4月3日にパトラに上陸した。援軍を得た城のトゥルク兵は都市を破壊・略奪した。革命軍に好意的なスウェーデンプロイセン、ロシア、フランスの外国領事はパトラから脱出した。中立を保ちギリシャ人を領事館に入れなかったイギリス領事のグリーン[6]と、フランス領事のプクヴィルは、革命が恐ろしかったと記している。装備も練度も低い革命軍は強い抵抗は出来なかった。地元の靴職人のカラツァスは、トゥルク人の住居地区での攻撃を妨害した。最終的に、城の外のトゥルク人は1828年にフランス兵に除去された[7]
近代新聖アンドレイ教会ゲルギオウ1世広場のアポロ劇場。エルンスト・ジラー(建築家)が19世紀の商人の繁栄を讃えて建てた。

1828年10月7日、メゾン将軍率いるフランスのペロポネソス遠征軍がパトラを解放した。

1829年、フランス軍技師のブルガリスが未だ廃墟だったパトラの新しい都市計画を提案し、ギリシャを統治するカポディストリアスが承認した。

19世紀半ば、計画は有力地権者の意向を反映し一部が実現した。

19世紀後期には、パトラはアテネに次ぐ第2位の都市として発展した[8]。ペロポネソスの農産物を輸出する主要港となった[9]レーズンの集積地となり、倉庫や銀行、保険業が発達した。

1893年コリントス運河の開通によってパトラの重要性は低下した。

1894年、世界情勢と過剰生産によって世界的にレーズンの価格が暴落し、大レーズン危機と呼ばれる経済・政治・社会的困難の時代をもたらした[10]

20世紀初頭、イギリス・フランス・イタリア等の西欧との貿易によってパトラの重要性は復活した。この頃パトラはギリシャで初めて街灯と路面電車を導入した[11]

第一次世界大戦によってパトラの発展は停滞し、アナトリアからのギリシャ人難民によって制御出来ない程のスプロール現象が発生した。

第二次世界大戦では、パトラはイタリアによる重要な空爆目標になった。枢軸の侵略後に建てられた傀儡のギリシャ国では、ドイツ軍とイタリア軍が駐屯した。

1943年12月13日、近くのカラブリタで、ドイツ軍は男性を全て処刑した。(カラブリタの虐殺)

1944年10月の解放後、復興は進んだが、後にアテネの影響力を強く受けるようになる。

1970年代、聖使徒アンドレイ(アンデレ)が磔られた場所に新たに教会が建てられた。この新聖アンドレイ教会はバルカン半島最大規模の正教会である。
現在

コリンティアコス湾の入り口にあたり、イオニア海に面した港湾都市。オリーブ油ブドウ酒、皮革などの輸出港で、タイヤ製造もさかん。アドリア海をはさんで、イタリアとの間には長距離フェリーが頻繁に往復している。町には古代のアクロポリス跡、ローマ時代のオデオン(音楽堂)を初め、ヴェネツィア占領期、オスマン帝国時代の遺跡も残り、観光が重要な産業となっている。


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