パックインミュージック
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また、放送開始当初は番組キャラクターとしても「パック」が存在し(声を務めたのは喜多道枝)、毎日サウンドステッカーとして登場した[2]

1969年2月25日、TBSは当時のラジオ本部ラジオ局の機構改革と同時に人事異動を行い、『パックインミュージック』の番組制作チームは、新しく設けられた制作第二部に所属することになった[3]。この時、パックは金曜日の『ナチ・チャコパック』以外の曜日は低迷していて、1969年4月改編をもって、テコ入れを図った[4]。その中で、木曜日担当として北山修がフォークシンガーとしては初めてラジオの深夜番組のパーソナリティを務めた[5]。1969年からは、番組の会報誌「パック・ニュース」を刊行した。

また、この時期には深夜放送ブームが到来しており、ライバル番組であるニッポン放送の『オールナイトニッポン』は着実にネット局を増加させ、逆にパックは関東ローカルの番組に成り下がっていた[6]。そんな中で、1969年5月から、午前3時10分を境に第2部制が設けられることになったが、この第2部には、地方局がネットしやすいように、TBSではCMなしの放送となった(地方局側ではCMを流す時間の間に、TBSではフィラー音楽が流れていた)[7]。それに第2部のパーソナリティには、予算の関係からTBSアナウンサーが起用されることになった[7]。さらに、第1部と第2部の担当ディレクターは同じ人物が兼ねるという方式が取られた[8]

1971年の秋に、放送開始当初からのスポンサーだった日産自動車が降板したことを受け、1972年4月をもって放送開始から設けられていた日曜日(土曜深夜に放送)が廃枠となり、『ヤングタウンTOKYO 桂三枝の深夜営業』が開始された[9]。1972年10月3日の放送分から綜合放送に番組制作を外部委託することになり[9]、このことがきっかけで、当時の木曜日を担当していた吉田拓郎が当時のスタッフが担当を外れるならば「オレも降りる」を言い出してしまったために、『拓郎パック』が終了してしまったという[10]

1981年10月裏の時間帯文化放送ミスDJリクエストパレード』がスタートし、そのわずか2か月後の1981年12月聴取率調査では本番組の各曜日のシェアは『ミスDJ』に対し、金曜日の『ナチ・チャコパック』以外の4曜日で同数または下回るという結果となった(ミスDJリクエストパレード#概要節に掲載の表を参照)[11]。さらに、それと前後して、1981年1月2日(1月1日深夜)に、ニッポン放送が金曜日(木曜深夜)の『ナチ・チャコパック』と同じ時間帯で、ビートたけしを起用した『ビートたけしのオールナイトニッポン』の放送が始まり、『ナチ・チャコパック』は聴取率においても低下傾向となり、TBSラジオは1981年の年末に『パックインミュージック』全体の番組終了を決断した[12]。これについて、当番組発足者の1人で当時編成部に所属していた熊沢敦は「リスナーの低年齢化に大人のリスナーの深夜離れ。深夜放送そのものが曲がり角に来ている。もうやるべきことは全部やったし、15年経ってこれでひと区切り」とし、新しい方向性を模索すると話している[11]。一方、月刊ラジオマガジンモーターマガジン社)はこのことを「ミスDJに押され、ついに方向転換」と表現している[11]

番組終了2か月前の1982年5月31日には、テレビの『テレポートTBS6』で「パックインミュージックが終了へ」と題されたリポートを放送。その中で、5月28日放送の金曜日『ナチ・チャコパック』第773回の一部を放送、熊沢のインタビューも放送された。なお、この時のCM入り前のジングルは、「テレポート6」のものではなく、当番組のものが流れた[13]。このリポートを企画したのが、一時期、パックインミュージックに関わり、後に、テレポートTBS6のディレクターの小口勝彦で、「(金曜パックには)僕なりの思い入れがあった。あの番組は一つの時代を作った。それが、なんで終わっちゃうの?もったいないじゃないか、という気がした。それで自分の担当する番組で取り上げてもいい、十分なニュース価値もあると思った。」とこのリポートの企画意図について説明している[13]。そして、熊沢はリポートを企画した小口とのインタビューの中で「ヤングの中でも年齢層の高い人達がラジオから、やや離れかけているという状況がちょっとあるわけですよ。今までTBS、それから文化放送、ニッポン放送がほぼ似たようなことをずっとやってきたんですね。そういうことじゃ、これからは、やっぱりいけないんじゃないかと。」と述べた上で「敢えて心を鬼にして、一つのものを終えないと、また新しい一つのものが創れないと。」と終了理由について説明した[13]

そして、それと前後して、TBSラジオが改編による番組終了を発表した際、リスナーが撤回を求め、署名活動が行われた他、1982年6月26日に、清水谷公園から外堀通り経由で六本木三河台公園まで、200人が集まってデモ行進が行われた。この後代表者がTBS本社に出向き、番組終了を決定した代表者である熊沢と面会、抗議の主旨が伝えられた[13]

こうして、1982年8月1日未明(テーブル上は7月31日であり、折しも「パック」の満15周年記念日付の深夜放送であった)に、パック全体の最終回として『さようなら!パックインミュージック』として放送し、この最終回の司会を当時この番組の総合プロデューサーを務めていた林美雄が務め、15年の番組の歴史に終止符を打った[14]
15年間にわたる放送の各種データ[15]


パーソナリティー:累計64人(ピンチヒッターや、週替わりスペシャルパーソナリティーも含め100名余)

放送時間:総計11222時間(1日24時間ぶっ続けで聞いたとして1年102日=467日)

投書総数:約1122万通(3928m相当 富士山よりも高い高さとされる)

総放送回数:5611回(日曜日放送分、第2部時代も含む)

放送時間
概説

開始当初から1969年5月10日までは、24時30分から27時までが生放送(「パックにリクエスト」)で、27時から29時は録音番組[注 1]を放送していた。5月12日から、27時台を境にパーソナリティが交代する第2部制となった。

1974年9月からスポンサー企業がついたため、パックインミュージックの第2部は終了。ターゲットを夜中に仕事をしている人向けとした別番組『いすゞ歌うヘッドライト?コックピットのあなたへ?』がスタートした[注 2]
放送時間の変遷

1967年7月31日 -
1969年5月10日:月曜 - 土曜24:30 - 29:00

1969年5月12日 - 1970年10月4日:月曜 - 土曜24:30 - 27:10〈第1部〉/27:10 - 29:00〈第2部〉番組前半を第1部、後半を第2部に分割。第1部は27時までが生放送で、27時から10分間は録音番組『乾宣夫のマジックピアノ』を放送。

1970年10月6日 - 1972年4月8日:月曜 - 土曜25:00 - 27:00〈第1部〉/27:00 - 29:00〈第2部〉『乾宜夫のマジックピアノ』の終了により、第2部の放送時間を10分拡大。27時開始となった。

1972年4月10日 - 1974年8月30日:平日25:00 - 27:00〈第1部〉/27:00 - 29:00〈第2部〉土曜日の放送を廃止。以降は平日のみの放送となる。

1974年9月2日 - 1982年7月30日:平日25:00 - 27:00第2部の廃止により、放送時間を縮小した。

パーソナリティ

本番組では、放送曜日を月曜日から土曜日(深夜)ではなく火曜日から日曜日(未明)としていた。以下、その原則に従って記す。
第1部
火曜(月曜深夜)

1967年8月 - 1968年9月:
増田貴光戸川昌子

1968年10月 - 1969年3月:福田一郎野村道子


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