パソコンゲーム
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このPC-8001用に初代『信長の野望』も開発・販売され、国産パソコンゲームの数少ない長寿タイトルとなっている。Category:PC-8001用ゲームソフトCategory:PC-8800用ゲームソフト英語圏のみで発売されて日本では販売されなかったソフトも多いのでen:List of PC-88 gamesも参照のこと。

1982年に日本電気(NEC)が、業務に使える水準に性能を向上させたPC-9800シリーズを発売すると、大企業からマニアまで急速に普及した。パソコンの愛好家たちやゲームメーカーは、高性能化したPC-9800を使って多数のゲームを展開し、国産パソコンゲームの全盛期を築いた。

PC-9800は日本国外でも販売され、英語のゲームソフトも多数開発された。

以下の一覧も参照のことPC-9800シリーズのゲームタイトル一覧Category:PC-9800シリーズ用ゲームソフト(英語圏でのみ発売され日本では販売されなかったソフトも多いので)en:List of PC-98 gamesも参照のこと。「PC-9800シリーズ#日本のパソコンゲーム文化」も参照
1980年代 IBM PC用のゲームグリーンモニタのIBM PC(XT)でプリンス・オブ・ペルシャをプレイ

1981年には、「コンピュータ業界の巨人」と言われていたIBMIBM PCを発売し、欧米ではこれが標準的なコンピュータとなり普及した。またIBM PCのクローンを作るコンピュータメーカーが多数登場し、クローンマシンの群は「IBM PC コンパチブル」「PC/AT互換機」と呼ばれるようになり、IBM PCの仕様はデファクトスタンダード化した。

IBM PC(やそのクローン)は、基本はオフィスで使う想定で設計されたマシンなので主に企業の実務に使われたのではあるが、ゲームに使うということも行われた。たとえばアメリカの企業などの重役や中間管理職の部屋(※)にIBM PCが設置されている場合でも、基本は仕事のために使っていたにしても、一方でデスクの引き出しの中にはゲームソフトを1?3個ほど潜ませておいて、仕事の合間に息抜きにゲームをして遊ぶようなことは一般的だったと英語圏では言われている。※ アメリカのオフィスというのは、プライバシーが守られやすい傾向が強い。重役の場合原則的に完全に密閉した個室形式であるし、中間管理職程度の人でも背の高いパーティションでしっかり区切られ秘密やプライバシーが護られやすい構造になっている。つまりデスク上やディスプレイが他の従業員には直接見えないことが多い。その結果アメリカでは中ランク以上の社員たちは、コンピュータのスピーカから音が出ない設定にさえしておけば、業務用ソフトで真面目に仕事をしているのかゲームソフトで遊んでいるのか他の従業員には分からないので、オフィスでIBM PC(やクローン)を使って遊ぶこともできた。というわけで、IBM-PCおよびクローンマシン用のゲームソフトも多数作られた。

当時のIBM PCのディスプレイの主流はグリーンモニタ(当時「眼に優しい」と考えられていた緑色だけで表示するディスプレイ)であり、つまり単色表示であり、せいぜい濃淡しか表現できず、ほぼ白黒表示のようなものであった。カラー表示をしたいユーザはColor Graphics Adapter(CGA。IBM PC用のカラービデオカード)を使ったが、これもかなり限られた表示能力しかなく、色数の選択肢が2色、4色、16色しかなく、解像度も文字換算でわずか40x25あるいは80x25個表示できる水準でしかなく、かなり限られた表示能力でのゲームとなった。

1980年代に200以上のPCゲームが販売されるようになり、もとはApple II向けだったゲーム(Microsoft Flight Simulatorなど)も多数移植され、元はアーケードゲームだったゲーム(任天堂のドンキーコングやAtariのBattlezoneやナムコのパックマンなど)も移植された。en:List of self-booting IBM PC compatible games
Commodore 64のゲームC64のゲームプレイ風景。キーボード一体型の本体、表示用のテレビ受像機、ジョイスティックコントローラ、フロッピーディスクドライブデータレコーダ。(ベルリンのコンピューターゲーム博物館de:Computerspielemuseum Berlinの展示)C64の「Spittis Search」の画面C64のドラッグレース・ゲーム

1982年にCommodore 64(コモドール64。略称 C64)の量産および販売が始まった。C64は欧米の一般家庭の人々に爆発的に売れた。C64はRFモジュレータ内蔵であったため、本体をそのまま家庭用テレビに接続して安価に使うことでき、また輝度信号と色信号に分離して出力可能なコンポジット映像信号出力端子も備えていたため、それに対応する別売専用モニターを接続すればより美しい出力を得ることもできた。コモドールは販売戦略にも長けていて、認定代理店で販売するだけでなく、デパートや玩具店やディスカウントストアでもC64を販売した。販売総数は1982年の量産開始から1993年の販売終了までに、1250万から1700万台ほどにおよんだとされており、単一機種としては最も販売台数の多いパーソナルコンピューターであり、今もこの記録は破られていない[2][3]。1983年から1986年の間、C64は毎年200万台以上売れ、市場シェアは30%?40%にもおよんだ[4]。競合機のPC/AT互換機Appleの製品やAtariの8ビットファミリーよりもよく売れていた驚異的なマシンであり、家庭ではもっとも一般的なパソコンだったのである。

このC64向けに1万種を超えるソフトウェアが制作・販売されたとされており、家庭用のパソコンなのでまるでゲームマシンのように使う人も多く、C64向けに2000本を超えるゲームソフトが制作・販売された。

en:List of Commodore 64 games (A?M) - 1301 タイトル

en:List of Commodore 64 games (N?Z) - 749 タイトル

なお日本の市場では、パソコンとしてはNECのパソコン群との競合、ゲームマシンとしては日本のファミコンとの競合が起き、また日本語への適応もあまり良くなかった、などの諸事情が重なり、あまり販売数が伸びず日本では知名度が上がらなかった。だが欧米の人々にとっては、今なお1980年代のゲームマシンのようなパソコンとして圧倒的な知名度がある機種である。

2018年には復刻版のC64版がミニチュアサイズ、HDMI、USB端子つき、ジョイスティックつき、ゲームソフト64本こみで発売された(THEC64 Mini)[5]。2019年にはC64の復刻盤、HDMI端子つき、実物大つまり1980年代当時のサイズで、おまけにキーボードのタッチ感も再現したものが、やはりゲームソフト64本プリインストール済みの状態で発売された[6]
シャープX68000のゲーム

1987年にシャープから発売されたX68000はコアゲーマーから熱狂的な支持を受けた。MPUとして、それまで日本のパソコンでは使われていなかったモトローラのMC68000(Macintoshに搭載されていたもの)が搭載されていたこともあるが、なによりも当時としては大容量を誇るVRAMと強力なグラフィックコントローラ群によって実現された65,536色の多色グラフィックとスプライト機能、FM音源8チャンネル+ADPCM1チャンネル、1MBのメインメモリ(最大12MB)などの周辺回路により、総合的に競合製品を凌駕するホビーマシンとしての性能を備えていたからである。このX68000はゲームクリエイターを育成するための専門学校の実習機としても採用され、良質なゲームが多く作られた。Category:X68000用ゲームソフトも参照のこと。
1990年代 3Dゲームの流行の始まり / ネットゲームの黎明
3Dゲームの流行

1990年代前半頃から3Dゲームが流行する。1990年代前半のパソコンゲームの中でも、特に3D描画を前面に押し出したタイトルを挙げるとすれば、DOOMDuke Nukem 3DDESCENTMechWarrior 2MYSTニード・フォー・スピードレミングスなどがある。だがこの時代、グラフィックの品質は概して低かった。何れも初版はCPUのみでレンダリングを行っており、画面解像度も640x480や800x600程度で、フレームレートも少なく、生ポリゴンの使用も多く、テクスチャマッピングは行われていても粗かった。高品質な描画でもフラットシェーディングの採用が多かった。

アーケードゲーム基板はメーカーの独自開発により複数のCPUや3Dアクセラレータが搭載可能になっていたため、当時のCGワークステーションに匹敵するような高品質な3Dを描画できた。アーケードゲームの流れを受け、パソコンゲームでも高品質なグラフィックを実現することを目標に3Dアクセラレータの開発が行われた。

(とはいえ、すべてのゲーマーが3Dゲーム指向だったわけではなく、2Dゲームのほうを好んでいたゲーマーも多かった。2Dゲームは、1970年代後半から常に遊ばれ続け 、1990年代前半でもその状況は変わらなかった。)
3Dアクセラレータの価格低下、グラフィックAPIの乱立

1995年、安価にパソコン用の3Dアクセラレータチップを作れるようになり、NVIDIANV1ATiの3D Rage,MatroxMystiqueS3 GraphicsのViRGE,RenditionのVerite V1000などが一斉に登場した。

だがグラフィックAPIについて統一規格と呼べるものは未だなく、各社が異なるグラフィックAPIを提唱していた。例えば、NVIDIAは曲面描画API,ATiはATI3DCIF,S3 GraphicsはS3d,3dfxはGlideを提唱していた。これらの規格の違いで各社のグラフィックカードで遊べるゲームソフトが各々限定的になってしまった。また、ユーザー自身が購入するゲームソフトに応じてグラフィックカードの差異を強く意識しなければならず、プレイ環境一式を揃えようとすると非常に高価であることから、一般からは時期尚早として敬遠された。
Windows 95、Direct X

1995年8月25日にMicrosoftからWindows 95の英語版が発売され(日本語版発売は同年11月)、GUIで使いやすいことが世界中で評価され普及した。そして、1995年10月にMicrosoftからグラフィックAPIのDirectXの最初のバージョンが「Windows Games SDK」という名でリリースされると、これがグラフィックAPIのデファクトスタンダードとなってゆき、各グラフィックベンダーによる独自規格は廃れていった。Direct Xがスタンダードとなったことにより、ゲーム開発の効率が上がるようになった。

1996年には、一世を風靡した3dfxのVoodoo Graphicsや、影は薄かったもののNECPowerVR PCX1も登場した。


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