マデロが新しい大統領に就任したが、彼はオロスコが自分の命令に背いてシウダー・フアレスを落としたことをよく思っておらず、オロスコにはその功績にふさわしい地位を与えずにそのライバルであるベヌスティアーノ・カランサを内閣に入れた[5]。オロスコはチワワ州の地方軍司令官に任命された[4]。
期待されていた農地改革をマデロ政権が実行することができなかったため、まもなく各地で反乱が起きた。南部ではエミリアーノ・サパタが蜂起し、オロスコもコロラドス(赤旗派)という反乱軍を組織して1912年にチワワ州で反マデロの武装蜂起を起こした[5]。マデロはビクトリアーノ・ウエルタに反乱を鎮圧させた。オロスコはウエルタに敗北し[4]、アメリカ合衆国に亡命した[5]。
翌1913年のクーデター(悲劇の十日間)でマデロ政権が倒され、ウエルタが大統領に就任すると、オロスコはメキシコに帰国してウエルタに接近し、1913年にその少将に任命された[4]。彼は憲法派と戦い、憲法派のカランサや農民派のビリャおよびサパタはオロスコを裏切り者と批判した[4]。
憲法派によってウエルタ政権が倒されると、オロスコはふたたびアメリカ合衆国へ亡命し、そこでウエルタとともに反政府軍を組織した[4]。しかし1915年6月27日にオロスコとウエルタはニューメキシコ州ニューマンでアメリカ合衆国中立法違反で逮捕され、テキサス州エル・パソに連行された[2]。ウエルタとオロスコは保釈金を払って釈放されたが、自宅軟禁された[2]。
オロスコは7月3日に自宅軟禁から逃がれ、2か月近くの間逃亡生活を送ったが[2]、メキシコに再入国しようとしたところを1915年8月30日、テキサス州ヴァン・ホーン (Van Horn, Texas) でテキサスの民警団に射殺された[1][2][5]。民警団がオロスコを殺したのは馬を盗んだためとされたが、実際に彼が馬を盗んだかどうかは明らかにならなかった[5]。
オロスコの遺体はエル・パソに埋葬され、約3000人が参列した[2]。10年後に遺体はチワワ州チワワに移された[1][2]。
脚注^ a b c d e ⇒“Estado de Chihuahua - Guerrero”, Enciclopedia de los Municipios y Delegaciones de Mexico, INAFED, ⇒http://www.inafed.gob.mx/work/enciclopedia/EMM08chihuahua/municipios/08031a.html
^ a b c d e f g h Martin Donell Kohout (1995-05-01), Orozco, Pascual, Jr. (1882?1915), Handbook of Texas, https://www.tshaonline.org/handbook/entries/orozco-pascual-jr
^ Servicio de Informacion Agroalimentaria y Pesquera (2021-10-05), Promulgacion del Plan de San Luis, Gobierno de Mexico, https://www.gob.mx/siap/es/articulos/promulgacion-del-plan-de-san-luis