パスカルの賭け
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そして君の本性が避けようとするものは二つ、誤りと悲惨とである。君の理性は、どうしても選ばなければならない以上、どちらのほうを選んでも傷つけられはしない。これで一つの点がかたづいた。ところで君の至福は。神があるというほうを表にとって、損得を計ってみよう。次の二つの場合を見積もってみよう。もし君が勝てば、君は全部もうける。もし君が負けても、何も損しない。それだから、ためらわずに、神があると賭けたまえ。――これは、すばらしい。そうだ、賭けなければいけない。だが僕は多く賭けすぎていはすまいか。――そこを考えてみよう。勝つにも負けるにも、同じだけの運があるのだから、もし君が一つの生命の代わりに二つの生命をもうけるだけだとしても、それでもなお賭けてもさしつかえない。ところがもし、三つの生命がもうけられるのだったら、賭けなければいけない(なぜなら、君はどうしても賭けなければならないのだから)。そして、賭けることを余儀なくされている場合に、損得の運が同等であるという勝負で、三つの生命をもうけるために君の生命を賭けなかったとしたら、君は分別がないことになろう。ところが、ここには、永遠の生命と幸福とがあるのだ。それならば、仮に無数の運のうちでただ一つだけが君のものだとしても、君が二つの生命を得るために一つの生命を賭けてもまだ理由があることにはなろう。そして、賭けることを余儀なくされている場合に、無数の運のうちで一つが君のものだという勝負で、もしも無限に幸福な無限の生命がもうけられるのであるならば、君が三に対して一つの生命を賭けることを拒むのは、無分別ということになろう。ところが、ここでは、無限に幸福な無限の生命がもうけられるのでかあり、勝つ運が一つであるのに対して負ける運は有限の数であり、君の賭けるものも有限なものである。 ? パスカル、『パンセ』、中公文庫、1973年12月10日、158-161頁。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}

パスカルは、神の本質は「限りなく不可知である」として、神の実在/非実在は人間の理性では証明不能だという前提を出発点とした。理性がその問題に答えられなくとも、人は憶測や盲信で「賭け」をすることになる。実際には我々は既に(信仰の)選択を行って生活しており、パスカルの観点から言えばこの点に関しての不可知論はあり得ない[要出典]。

我々は「理性」と「幸福」という2つのことだけを秤にかける。パスカルは、神の存在についての問題は理性では解けないため、コイントスのような「損失と利益の等しいリスク」があると見なした。そういうわけで我々は、神の存在を信じたときの損失と利益を考慮して、自らの幸福にしたがって判断しなければならない。パスカルは「得るときは全てを得、失うときは何も失わない」として神が存在する方に賭けるという判断が賢いと主張した。すなわち、神が存在するなら永遠の命が約束され、存在しない場合でも死に際して信仰を持たない場合より悪くなることは何もない[要出典]。
決定理論による分析

パスカルの賭けで定義される可能性は、以下のような意思決定マトリックスを使い不確かな状況での選択として考えることができる。なお、パスカルは地獄については何も言っていないし、神が存在してそれを信じない場合に得るものについて何も言っていない。彼の観点からは神を信じることで無限の利益が得られる可能性を導くだけで十分だったためである。パスカルはまた B と ~G の組合せを単に -N としているが、これについても異論は多い。なお、Gの確率は正で有限と仮定する必要がある。

神は存在する (G)神は存在しない (~G)
神の存在を信じる (B)+∞ (天国)?N (none)
神の存在を信じない (~B)?? 記述なし
おそらく N (辺獄/煉獄
または ?∞ (地獄)+N (none)

これらの値から見ると、神の存在を信じて生きるという選択肢 (B) は神を存在を信じずに生きるという選択肢 (~B) より優位である。言い換えれば神が存在するかどうかに関わらず、Bを選択したときの期待値は ~B を選択したときのそれと同じかより大きい。

実際、決定理論によれば、上記のマトリックスで考慮に値するのは +∞ だけである。次のようなタイプのマトリックス(f1, f2, and f3 はいずれも正の有限な数か負の数)では、(B) だけが合理的決定である[8]

神は存在する (G)神は存在しない (~G)
神の存在を信じる (B)+∞f1
神の存在を信じない (~B)f2f3

批判

パスカルの賭けは発表当時から様々な批判にさらされてきた。ヴォルテールは「無作法で子供っぽい… 信じることで利益が得られることが実在の証明にはならない」と書いた[9]。しかしパスカルはこの賭けが神の実在の証明だとは言っていない[10]。それは単に、確実性に対する彼の論証の帰結であり、理性が信用できないという観念と炯眼な神の実在が「コイントス」で決まるという観念によるものである。神が存在するかどうかという問題において理性が信頼できるなら、賭けはそもそも不要である。
天啓の齟齬に基づく論証

歴史上、数多の宗教が存在し、それぞれの神に実在する可能性がある。したがって、パスカルの賭けでそれらを全て考慮する必要があると主張する人もいる。これをargument from inconsistent revelations(天啓の齟齬に基づく論証)と呼ぶ。それによると間違った神を信仰する可能性が非常に高いことになり、パスカルの行った計算は間違っていることになる。ヴォルテールの同時代人であるドゥニ・ディドロはパスカルの賭けについて聞かれたときに「イマームも同じように推論できるだろう」と答え、このような見方を簡潔に表した[11]。J・L・マッキーは「救済を与えるとしているのはカトリック教会だけではなく、アナバプテストモルモン教スンナ派カーリーの信奉者やオーディンの信奉者など様々なものがある」と述べている[12]

パスカル自身は賭けの節自体では他の宗教を考慮していないが、それはおそらく『パンセ』の他の部分で(そして彼の他の作品で)ストア派ペイガニズムイスラム教ユダヤ教などを検討し、どんな信仰でも正しいなら、それはキリスト教の信仰に通じるものがあると結論付けているためである。

それにも関わらず、このような批判が出てきたとき、パスカルの賭けを弁護する立場からの反論は、競合する選択肢のうち無限の幸福を与えるものだけが賭けの優勢に影響するとした。オーディンもカーリーも約束した幸福は有限で限定的であり、イエス・キリストの約束した無限の幸福には太刀打ちできず、したがって考慮に値しないとしたのである[13]。また、競合する神が約束する無限の幸福は相互排他的だとした。キリストの約束する幸福はエホバアッラーフのそれと同時に満たされることができ(これら3つはアブラハムの宗教と呼ばれる)、間違った神を信じたときのコストが中間(辺獄/煉獄)の場合は意思決定マトリックス上で考慮に値しないが、正しい神を信じないことが罰(地獄)を生じる場合は無限のコストとなってしまう[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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