パシュトゥーン人
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

2020年時点で、パシュトゥーン人は、パキスタン人口の15%を占めている[3]。パシュトゥーン人は、ムハンマド・アイユーブ・ハーン大統領、グラーム・イスハーク・ハーン大統領など、多くの政治家を輩出しており、ビジネス界にも進出している。1990年代初めのデータによれば、軍将校の20%、警察幹部の16%、高級官僚の10%以上がパシュトゥーン人だった。パシュトゥーン人政党としては、人民国家党(アバミ・ネイシェネル・パルタ)が存在する。同党やカイバル・パクトゥンクワ州の一部の活動家の中には、統一パシュトゥーン人州(パシュトゥーンフバ・スバ)の創設を主張する者もいるが、多くのパシュトゥーン人は補助金や特権の喪失を恐れ、これに賛同していない。
歴史

紀元前2世紀後半に北方からイラン高原の東部に侵入したと伝えられており、もともとの居住地は、カンダハールの東にあるクーヒ・スライマーン山脈の近くにあったと伝承されている[4]

10世紀頃にイスラーム教を受け入れ、のちにイランサファヴィー朝インドムガル帝国の支配を受けた。その一派は18世紀初頭にサファヴィー朝に対して反乱を起こし、1722年に首都イスファハーンを陥落させるが、アフシャール朝ナーディル・シャーに敗れた。

ナーディル・シャーの死後、彼に従っていたドゥッラーニー族のパシュトゥーン人アフマド・ハーン・アブダーリーはアフマド・シャー・ドゥッラーニーを名乗りカンダハールでアフシャール朝から自立し、アフガニスタン国家の起源となるドゥッラーニー朝を建国する。ドゥッラーニー族が支配するアフガニスタンでは、パシュトゥーン人部族の有力者(貴族)が国家のあらゆる側面で力を持ち、国家を支配してきた。

民族の居住地域が大きく分散していないにもかかわらず、2つの国家に分割されているのは、19世紀当時にアフガン戦争によってこの地域を支配下に置いていたイギリスが、保護国アフガニスタンと植民地インドとの境界を民族分布を考慮せずに引いたためである。1893年の国境線(デュアランド・ライン)の画定に伴い、パシュトゥーン人の居住地域は、アフガニスタンと現在のパキスタン北西部に分かれることとなった。
部族詳細は「w:Pashtun tribes」を参照
部族連合
ドゥッラーニー部族連合
バーラクザイ部族をはじめ、アチャークザイ族(英語版)やアリーゴザイ族(英語版)、ポーパルザイ族(英語版)などの部族があり、その下に サドーザイ族(英語版)などの氏族がある[5]。またムハマドザイ族(英語版)のような縁戚も居る。
ギルザイ部族連合
スライマーン・ヘール族、アリー・ヘール族、タラキー族、ナースィル族、ハローティー族、ホターキー族、トーヒー族など[5]
地理
ジャラーラーバード
アフマドザイ族など
[5]
カルラーン支脈
カルラーニー族など[5]
パクティヤー州
ワズィール族(英語版)などの部族がある[5]
パキスタン
en:Bettani族やen:Swati (Pashtun tribe)族など。
遺伝子

パシュトーン人のY染色体ハプログループR1aが51%、Qが18.4%、Lが12.2%となっている[6]。中でもパラグループQ*が16%みられ[7]、この辺りが発祥地と考えられる。
文化詳細は「パシュトゥーン人の文化(英語版)」を参照「パシュトゥーン人の民族衣装(英語版)」も参照

この節の加筆が望まれています。

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 南西アフガニスタンからインダス川中流までの東西の直線ラインと、北はインダス川に沿って現在のパキスタンのスワート渓谷(英語版)(スワート県(英語版))までの線で区画される三角地帯に広がっている[1]
^ 2000年までにおよそ2000万人に達した。およそ同数ずつが両地域に居住している[1]

出典^ a b ヴィレム(2005) 36ページ
^ “58 アフガニスタン:ターリバーンが暫定内閣を発表”. 公益財団法人 中東調査会 (2021年9月8日). 2021年9月13日閲覧。
^ “Pakistan - The World Factbook”. www.cia.gov. 2021年9月8日閲覧。
^ フォーヘルサング(2005) 37-38ページ
^ a b c d e 「アフガニスタンの歴史と文化」P51-54


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef