パクス・ブリタニカ
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1807年奴隷貿易法(英語版)はイギリス帝国内における取引を禁止していたが、その後イギリス海軍が西アフリカ艦隊(英語版)を創設し、政府は禁止令を執行できるようにするための国際条約の交渉をした[18][19]。しかし、そのシーパワーが陸上に進出することはなかった。大国間の陸上戦争には、クリミア戦争第二次イタリア独立戦争普墺戦争普仏戦争などのほか、多数の小国間の紛争があった一方、イギリス海軍は清王朝に対してアヘン戦争アロー戦争を仕掛けた。

最も決定的な出来事は、1914年までオスマン帝国が名目上の領有権を有していたにもかかわらず、イギリスによる70年間ものエジプト占領をもたらしたイギリス・エジプト戦争(英語版)から生じた[20]。歴史家のA・J・P・テイラーは「(これは)主要な出来事であった。実際、セダンの戦い日露戦争におけるロシアの敗北との間の国際関係において、唯一の決定的に重要な事件であった[21]」と述べている。彼はまた、その長期的な影響を次のように強調している。英国のエジプト占領は勢力均衡を修正した。それはインド航路のための英国の安全保障をもたらしたのみならず、それによって英国は東地中海と中東の支配者となり、海峡でロシアと対峙する最前線に立つ必要がなくなった....こうして10年後の露仏同盟への道筋を整えたのである[22]

イギリスは1840年以降に自由貿易政策を採用し、世界各国との間で財や資本の大規模な取引をしてきた。19世紀後半に発明された新技術である蒸気船電報により帝国の支配と防衛が可能になり、イギリス帝国の勢力拡大をより一層支えた。1902年までに、イギリス帝国はオール・レッド・ライン(英語版)と呼ばれた電報ケーブルのネットワークにより結ばれていた[23]
衰退

パクス・ブリタニカはウィーン会議によって確立された大陸秩序の崩壊により弱体化した[24]。ヨーロッパ列強間の関係は、クリミア戦争に至るオスマン帝国の衰退、普仏戦争後におけるイタリア王国やドイツ帝国の形成といった新たな国民国家の出現などの結果により、限界点を越えていた。どちらの戦争も、ヨーロッパ最大の国家と軍隊が関与していた。ドイツ帝国、大日本帝国、アメリカの工業化は、19世紀後半におけるイギリスの産業覇権の相対的な衰退に寄与し、1914年の第一次世界大戦の開始はパクス・ブリタニカの終焉を告げた。しかしイギリス帝国は、第二次世界大戦後に脱植民地化が始まる1945年まで最大の植民地帝国であり、1956年第二次中東戦争にてアメリカとソビエト連邦の圧力により英仏両軍がエジプトから撤退するまでは、有数の大国の1つであった。
海軍力

パクス・ブリタニカはナポレオン戦争中に確立されたイギリス海軍の絶対的優位性を背景としていた。平時は海賊や奴隷貿易の取り締まりなどが主であるため、常時大艦隊を揃えるというようなことはなかったが、必要とあれば他の列強以上の早さで戦列艦を建造する能力をイギリスは備えていた。特に19世紀末のイギリス海軍整備の基本方針は二国標準(Two-Power Standard)として知られる。1889年の Naval Defence Act で銘記されたこの原則は、端的に言えば第二位、第三位の国の海軍力を併せたよりも更に大きな海軍力を整備するという方針である。当初、具体的な仮想敵国は伝統的な競争相手であるフランスとロシアを想定していた。1900年頃からフランスとロシアに代わって、新たにドイツ帝国とアメリカ合衆国が政治的・経済的・軍事的な競争相手として現れると、建艦競争は激しさを増し二国標準は立ち行かなくなったが、公式には1909年まで掲げられた[25]
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19世紀のイギリス外交はアメリカ独立戦争フランス革命戦争、そしてナポレオン戦争の教訓から、「海路の支配」・「戦略地域の安全確保」・「対英同盟の阻止」という三つの原則に則って進められた。
海路の支配

最も重要なのは、エンパイア=ルート(Empire Route) と呼ばれる帝国通商路、つまりエジプトを経由してイギリス(本国)とインド(最重要植民地)を結ぶ航路の確保である。ナイルの海戦トラファルガーの海戦によって海上でのイギリスの優位は確立されていたが、これをさらに維持・強化する必要があった。交易上の問題だけでなく、兵力の迅速な輸送にも関わったためである。マルタ島喜望峰セイロン島など、イギリスにとっての戦略重要地点が戦争中に占領され、ウィーン会議でその領有が認められた。これら交易路上の要地には海軍基地が建設された。エジプトにスエズ運河が出来ると、これもただちに影響下に置いた。
戦略地域の安全確保

ボスポラスダーダネルス海峡イギリス海峡対岸のネーデルラントといった地政学上重要な地域はその安全と中立が課題となった。イギリスと海を挟んだ反対側、現在のベルギーにあたる地域は、喉元に突きつけられた短剣とも言え、歴代のイギリス政府はこの地域の中立化に心血を注いできた。カトリック国のスペインからプロテスタントのオランダが独立する際はそれを支持し、オランダから南部カトリック州が分離するならばフランスの影響下に入ることのないように注意を払った。
対英同盟の阻止

いかにイギリスといえどもアメリカ独立戦争やナポレオン戦争の時のようにヨーロッパの複数の国に連携して対抗されてはいかにも分が悪い。故にイギリスに対して同盟が結ばれたり、単独でイギリスを脅かすような大国がヨーロッパに現れることは何としても防がなければならなかった。伝統的な敵国であったフランスとロシアが常に警戒の対象であったため、両国を牽制する新勢力として統一されたドイツ帝国が現れ、フランス第二帝政を打倒したときは当初は歓迎すらされた。しかし、ドイツ帝国や、同じく南北戦争を乗り越えて再統一を果たしたアメリカ合衆国のような新興国が台頭すると、イギリスをはじめ旧来の大国は相対的に地位を低下させる。さらに、親英的で対外政策には慎重であったオットー・フォン・ビスマルクを更迭したヴィルヘルム2世が親政を開始すると、「新航路」政策とも呼ばれる彼の対外積極政策がイギリス帝国の利害と対立するようになった。そして、南部アフリカではボーア戦争で予想外の苦戦を強いられ、イギリスは国力や威信を大きく損ねた。そこで、ロシアを抑え込む目的で、当時は近代化の途上にあった東洋の小国である日本と日英同盟を結び、「栄光ある孤立」政策をも放棄した。その2年後には英仏協商で長年の宿敵であったフランスと事実上の同盟関係を結び、ドイツ帝国の膨張政策に対抗しようとした。さらに、日露戦争での日本の勝利と日露の和解(日露協商)を経て英露協商を締結し、主にドイツを仮想敵とする勢力均衡の構造を形成することになる。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ Oxford English Dictionary では名を挙げていないが、1899年時点での桂冠詩人はアルフレッド・オースティンである。ただし、オースティンが最初にこの言葉使ったという記述はない。
^ この金融業は産業資本家たちではなく、イギリスの伝統的支配階級であるジェントルマンの手によって運営されていたため、「ジェントルマン資本主義」とも呼ばれる。


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