正式名称は、?????? ??????? ???????(ウルドゥー語;ラテン文字転写(一例)は、Isl?m? Jumh?r?-ye P?kist?n。イスラーミー・ジュムフーリーイェ・パーキスターン)。
公式の英語表記は Islamic Republic of Pakistan。通称は Pakistan。
日本語の表記はパキスタン・イスラム共和国。通称はパキスタン。漢字による当て字は巴基斯坦。かつてはパキスタン回教共和国という表記も見られた。
語源(パーク)が「清浄な」の意味である[15]。接尾語????? (スターン)は、ペルシャ語で「?の場所」を意味し、サンスクリットの?????
パキスタンという国名は、イギリス領インドのうちムスリム(イスラム教徒)が多く住む5つの北部地域の総称として、民族主義者のチョウドリー・ラフマト・アリー(英語版)による1933年の小冊子『パキスタン宣言(英語版)』の中で初めて使われたものである[17]。アリーは、パンジャーブのP、カイバル・パクトゥンクワ州(旧・北西辺境州)に住むアフガーン人のA、カシミールのK、シンドのS、バローチスターンのTANからPakstan(パクスタン)としていたが[18][19][20]、後に、発音しやすくするためにiが加えられてPakistan(パキスタン)となった[21]。
国名の変遷
1947年 - 1956年:パキスタン
1956年 - 1958年:パキスタン・イスラム共和国
1962年 - 1973年:パキスタン共和国
1973年 - 現在:パキスタン・イスラム共和国
歴史インド・パキスタン分離独立詳細は「パキスタンの歴史」を参照
19世紀には英領インドとしてインドと同一の政府の下に置かれており、独立運動も本来は同一のものであった。しかし、独立運動の中でイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させる構想が浮上した。これを避けるための努力は独立寸前までなされたものの、最終的にはヒンドゥー教徒地域がインド、イスラム教徒地域がパキスタンとして分離独立をすることとなった。しかしこのとき、インド東部がイスラム多数派地域の東ベンガル州(英語版)としてパキスタンに組み込まれ、1955年に東パキスタンとなったものの、遠く離れた両地域を宗教のみで統一しておくことは困難であり、やがて東パキスタンはバングラデシュとして分離独立の道を歩むこととなった。 1947年8月14日にイギリス領インド帝国から独立し、イギリス国王を元首に頂く自治領(英連邦王国パキスタン (ドミニオン))となり、建国の父ムハンマド・アリー・ジンナーが初代総督に就任する。同年10月21日から翌1948年12月31日にかけてカシミールの帰属をめぐって第一次印パ戦争が起き、1956年には共和制に移行し、イスカンダル・ミールザー
独立と印パ戦争
1958年のクーデターでミールザー大統領が失脚し(en:1958 Pakistani coup d'etat)、パキスタン軍の総司令官だったアイユーブ・ハーンの軍事独裁政権が誕生し、以後パキスタンは軍政と民政を交互に繰り返すことになる。1965年には第二次印パ戦争が起き、1970年11月に東パキスタンがボーラ・サイクロンによる被害を受け、被災地への政府対応に対する批判が高まり、第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)に発展して、東パキスタンがバングラデシュとして分離独立した。尚、この過程においてヘンリー・キッシンジャーは対中国交正常化に向け仲介役を果たしていたパキスタンがおこなっていた、東パキスタンにおける大規模なレイプや虐殺を外交面から援護したことにより、東パキスタンは後に独立を勝ち取ってバングラデシュとなったとされる[22]。
1972年、イギリス連邦を脱退し、パキスタン人民党の初代党首だったズルフィカール・アリー・ブットーは大統領や首相を歴任した。1977年7月5日にムハンマド・ズィヤー・ウル・ハクのクーデターによりブットーは職を追われ、後に処刑されている。 1978年4月28日、アフガニスタン共和国で四月革命が起こって社会主義体制に移行し、アフガニスタン民主共和国が誕生したことをきっかけとして、ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起し、アフガニスタン紛争が始まった。1979年2月にイラン革命が勃発し、11月にイランアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。アメリカ中央情報局 (CIA)はパキスタン経由でムジャーヒディーンを支援した為、アフガニスタンへのパキスタンの影響力が大きくなるきっかけを与えた。アメリカがスティンガーミサイルを非公式にムジャーヒディーンへ供与したことは、ソ連の対ゲリラ戦を効果的に苦しめ、後にソ連を撤退に追い込んだ。その一方で、戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。 1988年8月17日、ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハク大統領が飛行機墜落事故で急死した。同年10月31日には国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションが活動を開始し、12月2日にはズルフィカール・アリー・ブットーの娘であるベーナズィール・ブットーが、イスラム諸国初の女性首相に選出された。
アフガニスタン紛争と核開発