パキスタン
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同国には、8500年前の新石器時代の遺跡であるバローチスタンメヘルガル遺跡[4]や、旧世界の文明の中でも最も大規模な青銅器時代インダス文明など、いくつかの古代文化の遺跡がある[5]。現代のパキスタンを構成する地域は、アケメネス朝アレキサンダー大王の時代、セレウコス朝マウリヤ朝クシャン朝グプタ朝[6]、南部のウマイヤ朝、ヒンドゥー・シャーヒー、ガズナ朝デリー・スルターン朝ムガール帝国[7]ドゥッラーニー帝国シク帝国英国東インド会社の支配、そして最近では1858年から1947年までの英領インド帝国など、複数の帝国や王朝の領域であった。

パキスタンは、英領インドのイスラム教徒の祖国を求めるパキスタン運動と、1946年の全インド・ムスリム連盟の選挙での勝利により、1947年に英領インド帝国の分割を経て独立した。この分割では、イスラム教徒の多い地域に独立した州が与えられ、比類のない大規模な移民と犠牲者が出た[8]。当初はイギリス連邦自治領であったパキスタンは、1956年に正式に憲法を制定し、イスラム共和国として宣言した。1971年には、政治中枢を寡占する旧西パキスタンとの対立を深めた東パキスタンが、9か月間の内戦を経て新国家バングラデシュとして独立した。その後40年間、パキスタンは文民武官民主主義権威主義、比較的世俗的な政府とイスラム主義の政府によって統治されてきたが、その内容は複雑である[9]。2008年に文民政権が誕生し、2010年には定期的に選挙が行われる議会制を採用した[10]

現今においてパキスタンはミドルパワー(中堅国家)であり、2022年時点で世界第9位の常備軍を有している[11]核兵器保有国として宣言されており、急速に成長している大規模な中産階級を擁し[12]、新興経済国の中でも成長率の高い国として位置づけられている[13]。独立後のパキスタンの政治的歴史は、経済的・軍事的に大きく成長した時期と、政治的・経済的に不安定な時期の両方を特徴としている。パキスタンは、民族的にも言語的にも多様な国であり、地理的にも野生動物も同様に多様である。しかし、貧困、非識字、汚職、テロなどの問題を抱えている[14]。パキスタンは、国連上海協力機構イスラム協力機構英国連邦南アジア地域協力連合、イスラム軍事テロ対策連合に加盟しており、米国からは非NATOの主要同盟国に指定されている。
国名

正式名称は、?????? ??????? ???????(ウルドゥー語;ラテン文字転写(一例)は、Isl?m? Jumh?r?-ye P?kist?n。イスラーミー・ジュムフーリーイェ・パーキスターン)。

公式の英語表記は Islamic Republic of Pakistan。通称は Pakistan。

日本語の表記はパキスタン・イスラム共和国。通称はパキスタン。漢字による当て字は巴基斯坦。かつてはパキスタン回教共和国という表記も見られた。
語源

国名「パキスタン」は、ウルドゥー語ペルシア語で「清浄な国」を意味する。???(パーク)が「清浄な」の意味である[15]。接尾語????? (スターン)は、ペルシャ語で「?の場所」を意味し、サンスクリットの?????(スターナ)と同語源である[16]

パキスタンという国名は、イギリス領インドのうちムスリム(イスラム教徒)が多く住む5つの北部地域の総称として、民族主義者のチョウドリー・ラフマト・アリー(英語版)による1933年の小冊子『パキスタン宣言(英語版)』の中で初めて使われたものである[17]。アリーは、パンジャーブのP、カイバル・パクトゥンクワ州(旧・北西辺境州)に住むアフガーン人のA、カシミールのK、シンドのS、バローチスターンのTANからPakstan(パクスタン)としていたが[18][19][20]、後に、発音しやすくするためにiが加えられてPakistan(パキスタン)となった[21]
国名の変遷

1947年 - 1956年:
パキスタン

1956年 - 1958年:パキスタン・イスラム共和国

1962年 - 1973年:パキスタン共和国

1973年 - 現在:パキスタン・イスラム共和国

歴史インド・パキスタン分離独立詳細は「パキスタンの歴史」を参照

19世紀には英領インドとしてインドと同一の政府の下に置かれており、独立運動も本来は同一のものであった。しかし、独立運動の中でイスラム教徒ヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させる構想が浮上した。これを避けるための努力は独立寸前までなされたものの、最終的にはヒンドゥー教徒地域がインド、イスラム教徒地域がパキスタンとして分離独立をすることとなった。しかしこのとき、インド東部がイスラム多数派地域の東ベンガル州(英語版)としてパキスタンに組み込まれ、1955年東パキスタンとなったものの、遠く離れた両地域を宗教のみで統一しておくことは困難であり、やがて東パキスタンはバングラデシュとして分離独立の道を歩むこととなった。
独立と印パ戦争

1947年8月14日イギリス領インド帝国から独立し、イギリス国王を元首に頂く自治領(英連邦王国パキスタン (ドミニオン))となり、建国の父ムハンマド・アリー・ジンナーが初代総督に就任する。同年10月21日から翌1948年12月31日にかけてカシミールの帰属をめぐって第一次印パ戦争が起き、1956年には共和制に移行し、イスカンダル・ミールザー(英語版)が初代大統領に就任した。

1958年クーデターでミールザー大統領が失脚し(en:1958 Pakistani coup d'etat)、パキスタン軍の総司令官だったアイユーブ・ハーン軍事独裁政権が誕生し、以後パキスタンは軍政と民政を交互に繰り返すことになる。1965年には第二次印パ戦争が起き、1970年11月に東パキスタンボーラ・サイクロンによる被害を受け、被災地への政府対応に対する批判が高まり、第三次印パ戦争1971年12月3日 - 12月16日)に発展して、東パキスタンバングラデシュとして分離独立した。


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