1927年にベルリンに引っ越し、ベルリン音楽大学の作曲科の教授をつとめている。当時ヴァイオリンのヨーゼフ・ヴォルフスタール(没後はシモン・ゴールドベルク)、チェロのエマヌエル・フォイアーマンと結成した三重奏団は有名で、自身が演奏するための弦楽三重奏曲も作曲している。作曲家としてはオペラ、映画音楽、あるいは電子楽器トラウトニウムのための音楽など幅広い活動を行い、自ら演奏するためのヴィオラやヴィオラ・ダモーレのための曲も書いた。ヒンデミットは国際的に有名になり、ダリウス・ミヨー、イーゴリ・ストラヴィンスキー、フランツ・シュレーカーらと知り合った[6]。
ナチス・ドイツ時代のはじめにおいてはヒンデミットの評価は揺れていた。ヒンデミットの音楽はロマン派の作曲家からすると進歩的すぎるが、アヴァンギャルドな立場を取る作曲家たちにとっては穏健で順応的すぎると批判されていた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}アヴァンギャルドを批判していたナチスにとっては、ヒンデミットは受け入れられないものではなかった。[要出典]しかし、ヒンデミットは当時帝国音楽院の顧問であったのにもかかわらず、上記のようにユダヤ人のヴァイオリン奏者、チェロ奏者と弦楽三重奏を組んでレコーディングをするなどし、ナチスから反感を買っていた。1934年にフルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によって交響曲『画家マティス』が初演され、大成功した。しかし、同年10月にナチスの機関紙が「堕落の旗手」としてヒンデミットを非難しはじめた(ヒンデミット事件)。12月にヒンデミットはゲッベルスによって「無調の騒音作家」とされた。1936年には公式にヒンデミット作品の演奏が禁止され、1938年の退廃音楽展でも批判された。作品の発表の場を失ったヒンデミットはベルリンから離れることが多くなり、1935年にはトルコ政府からの依頼で、音楽教育の編成に携わり、アンカラ音楽院の開校に尽力した。1937年から1939年まで毎年渡米している[7]。Rudolf Wilhelm Heinisch画、クラリネットを吹くヒンデミットのカリカチュア、1937年。
1938年夏にスイスに亡命し、ヴァレー州ブリューに住んだ[7]。さらに1940年にはアメリカに亡命し、イェール大学の教授としてニューヘイブンに住んだ[8]。アメリカ時代の教え子にはルーカス・フォス、ノーマン・デロ=ジョイオらがいる[9]。アメリカ時代に作曲された曲には『ウェーバーの主題による交響的変容』、『ルードゥス・トナリス』など、人気の高い曲が多い。
第二次世界大戦終結後の1946年1月にアメリカの市民権を得たが、1951年からスイスのチューリヒ大学の教授の任についた。1953年にはイェール大学を辞してスイスに引っ越し、モントルー近郊のブロネに住んだ[10]。